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『感泣亭秋報』17号

 今年も詩人小山正孝の顕彰を主目的に、令息の正見氏が主宰編集する年報雑誌『感泣亭秋報』の寄贈に与りました。
 編集後記(感泣亭アーカイヴス便り)のなかで正見氏は、「大筋で言えば、正孝の顕彰はやり終えたと感じている」と記してをられます。今後は未定ですが、正見氏のサロン「感泣亭」を抒情詩の牙城と恃みとする近現代詩の愛好者・研究者は多く、詩誌『四季』周辺にあった詩人達の研究にもひろく開放されたこれまで17年間の蓄積は、八戸の詩誌『朔(1971-2015年179号にて終刊)』とともに、昭和前半期の口語抒情詩、特にマイナーポエットと呼ばれる人たちの研究には欠かせない文献として声価は定着してをります。
 同趣旨の年刊冊子としては他に『四季派学会論集』があるのですが、学会誌では業績として数へられない資料的側面──殊にも正孝正見二代の人脈を活かした回顧談に富み、今号においても「特集 鈴木亨に思いを寄せて」と、タイトルからして血の通った内容を旨としてゐることが窺へます。
 このたびの特集では、鈴木亨本人による一次資料として、同人誌に発表されたあと単行本に収録されずに已んだ一文「旅への誘ひ─立原道造の遍歴─」(昭和21年『午前』1巻5号)、そして初期の詩篇「鶴」(昭和14年『山の樹』2号)が収められてゐます。
 詩人鈴木亨については、かつてサイト掲示板に書いたことですが、戦後しばらく経って出された最初の詩集『少年聖歌隊』(昭和35年ユリイカ刊)にこれら戦前の佳品が収録されず、内容に飽き足らなかった私は実作者として軽視してしまひ、また詩人の集まりで自ら四季派ではないと称されたとの仄聞を以て、むしろ反感を抱き、角川書店版『現代詩鑑賞講座』に書かれた明治詩史(昭和44年)を読み、敬服するに至って「四季派人脈にあった近代詩史研究者」とのみ見做すやうになったかつての管見を、反省と共に再び思ひ出さされたことでした。(※駄文の後悔を下に掲げます。)

 「追憶の山崎剛太郎先生」を綴られた松田章正氏の一文も、「未知の若造からの手紙に対して」認められた「自筆のお手紙」に感動、幾度かやりとりの後、電話・訪問へと縁しを深めてゆかれた様子に、かつて田中克己先生の門を敲いた思ひ出が蘇りました。最晩年の山崎先生からは私も御家族による判読文を付した自筆御手紙を頂き感動しました。フランス映画・文学の全般に詳しくもない遠方住まひの私が、眼病をおしてそれ以上のお返事を要求することは出来兼ねたのが今に遺恨です。(※これまた下に掲げます。)

 一方、研究的側面でも『感泣亭秋報』に毎号寄せられる論考は、毎回いづれも力作ぞろひであり、今号では故若杉美智子氏の遺業にして自身の個人誌に連載してゐた「杉浦明平の世界」が、前号の「雑誌『未成年』とその同人たち」に続き、未完ではあるものの全文収録(二段組34p)してゐます。
 当時の若者インテリゲンチャ群像を追って道草を愉しむロマン派的記述体の文章は、立原道造をめぐる周辺情報について資料的価値高く、今回の収録により、極少部数発行されてきた連載記事の散逸が防がれると共に、盟友の鳥羽耕史氏による懇切な解説を附して集成されることで、故人に報ゆる『秋報』ならではの追善になったと思ひます。

 その、氏の逝去により未完に終った「杉浦明平の世界」。
 連載最後の13回目の次に用意されてゐた原稿が篋底に発見され、断りを入れて14回目として付されてをり、その内容が戦時中に奉職した特務機関「興亜院」に関するものであるのが大変に興味深いです。
 小山正孝が書籍検閲をこととする「日本出版文化協会」に籍を置いて居たことは知ってゐましたが、興亜院のあと杉浦明平も同僚として机を並べた時期があった由。兵役を免れんとする厭戦インテリゲンチャの若者たちが、軍国主義政策を統括・推進するお役所に居候を決め込んだ図は、本人の失意や鬱情とは別に不思議であり、無風地帯を求めて台風の目の中に飛び込んだやうで可笑しくも観ぜられます。
 そして氏が病に倒れる直前2015年7月に公刊された編著『杉浦明平暗夜日記1941-45』を横に置いて、この未完・未発表に終った最後の原稿に目を通してみますと、これが敬愛する先師に報いる絶筆となったことに、若杉氏の無念を憶はざるを得ません。
(レビューを加筆しましたのでご覧ください。)

 最後に。
 「やり終えたと感じている」と記された正見氏ですが、先年刊行された句集『大花野』の反応頗るよく、神田神保町に手にとって頂くスペースを設けられたとのこと。退隠することなく「自分の使命であり、妻への責任」を完うするのを今後の指針とされた正見氏には、この先も『秋報』継続に対する声援を送りたいと思ひます。

 目次を掲げると共に、ここにても厚くお礼申し上げます。
(冒頭掲載の遺稿の不明字、私は「淫」と読みましたが(笑)皆さんは如何)。

年刊『感泣亭秋報』17号 (2022年11月13日発行)A5版128p 定価1,000円 (送料とも)
発行:小山正見 oyamamasami@gmail.com

※転記1
「実は、田中克己先生のところへ出入りしてゐた当時のことですが、先生から伺ったお話のなかで、戦後何かの詩人会の席上で「わたしは四季派ではない」と公言して憚らなかった鈴木氏にとても憤慨したといふことを聞き及んだ私は、この人に対して些か失望した時期がありました。けだし田中先生にとっては伊東静雄の教へ子であり、クリスチャンでもあり、つまり身近に感じて当然の条件をもつが故、尚更そのスピーチは「四季」の存在を蔑ろにする背信行為に映ったのだらうと思ひます。戦争詩に手を染めずに戦後を迎へた四季派第二世代の「処世」を感じて私も悲しくなったのでした。
 尤も鈴木氏の発言の真意は、「四季派といふエコールなどは存在しないから私は四季派ではない」といふ程のことだったのかもしれない。しかし角川書店から出た戦前の「山の樹」の復刻版を知らず、なかんずく『少年聖歌隊』といふ詩人の処女作品集に大いに不満であった私は、たうとう自分の最初の詩集を刊行時にもお送りしませんでした。
 その後田中先生の葬儀で受付に立ったとき、目の前の署名にハッとして顔を上げ、未知の方々と御挨拶を交はしたのですが、鈴木氏が杖を引いて弔問にみえたことは、意外に感じられたので覚えてゐます。
 日夏耿之介のあとを襲って書かれた明治詩史に驚嘆し、また「山の樹」復刻を手に入れると当時の交歓の様子もわかってきました。しかし非礼を悟ったものの時すでに遅く、二番目の詩集に対しては礼状も頂けなかった。いつか四季派学会が名古屋で行はれた夏の夜、会員でも無いのに打上げ会場にのこのこ顔を出したところ、一言「君が中嶋君か。」と一瞥されて縮み上がり、杉山平一先生の陰に隠れてゐたことなど思ひ出します。恐らく田中先生について発表して会誌に載った僭越の文章が目に触れたのでせう。」
投稿日:2007年 9月22日

※転記2
「先生の最晩年、といっても既に七、八年の前になるが、小山正孝研究誌『感泣亭秋報』を御縁に、拙詩集をお送りした際の通信が半年ほど続いた。御返信を待つような再信を出しづらく、そのままとなってしまったが、頂いたお手紙にはどれも御家族によりワープロで打ち直された“判読文”が添へられてをり、本も手紙も、文字を読むこと自体に大変な御苦労をされてゐることを最初のお手紙で知らされ、すでに詩を書かなくなった自分が、どこまで踏み込んでお話ができるものか、あやぶみ恐縮した所為もある。
 しかしながらその後も日常生活におかれては頭脳明晰にして矍鑠たること、詩集のタイトルにこそ「遺言」や「柩」などの語句を掲げられたが、思へばそれも晩年に書かれた作品が編まれてゐること自体バイタリティの証しであり、四季派の詩人、特に立原道造を偲ぶ集ひにおいては、東の山崎剛太郎、西の杉山平一、いづれかの先生をお呼びできるかどうか、といふのが会合の品格を左右するものと思ひなしてゐた自分がゐる。」
投稿日:2021年 3月26日

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