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その伝記・・・陶淵明をよみくらし。Ⅲ(終)

承前。
訳詩集の読み比べを了へたあと、吉川幸次郎の『陶淵明伝(新潮文庫・中公文庫)初版1958年』を繙きました。楽しみのため故意に残しておいた本でした。
伝記なので引用の詩句はぶつ切りが多く、語釈もありませんが、碩学ならではの蘊蓄による解説と分析とに富み、作品集として鑑賞するといふより、あらためて陶淵明の詩趣を味はひ直すべき小品といふ読後感にて、なにより誰とも被らぬ自在な訓が振られてゐるのに驚かされました。

冒頭「自祭文:自ら祭る文」から書き起こされてゐます。けだし陶淵明がそれを書いて亡くなった63歳に今現在の私がなり、また大学に出仕してからまさに〝一去三十年〟今春退職するにあたってこの詩人に親しむ絶好の機会を得た御縁に再び感じ入ってゐます。

しかし今回紹介したいのはそれにもまして面白かった一冊。買ったまま積読になってゐた本の中にあったのですが、中国の李長之といふ人の著した『陶淵明(筑摩叢書1966年)原題:陶淵明伝論』です。原書は1953年に中国で刊行されてをり、吉川先生も執筆時にご覧になったかもしれません。現在は絶版ですが古書で容易に手に入ります。

文学者の伝記とは、その人生のなかで彼がどんな体験をしてきたか、のみならずそれを知ることによって作品鑑賞がどう深まるか、といふところに眼目があります。この本はのちに岩波文庫全集版(1990年)を手掛ける松枝茂夫・和田武司先生のペアによって訳されてをり、訓読、口語訳ともに共有部分があって読みやすく、煩瑣な語釈を求めず詩人の各詩篇を伝記と意味づけながら読んでゆきたい向きには、作品集として鑑賞することもできるやうな内容であると感じられました(巻末に詩篇目次があると良かった)。

そして、(これは吉川門下である一海先生の諸文章を前(さき)に読んでしまったからですが、)吉川先生の『陶淵明伝』が、自在な訓みの面白さを取り去って本文だけを読んでゆくと、「陶淵明はただの隠遁者でなかった」といふ論旨が強調されるあまり次第に冗長に感じられてしまふのに対して、こちら魯迅研究で鮮烈デビューしたといふ大陸気鋭の少壮学者によって書かれた一冊は、作品の意味が大胆に裁断されてゐて論旨明快。魏晋南北朝といふ詳しくは知らなかった時代ですが、歴史的・思想的背景と共に、登場する各キャラクターが大河ドラマのあらすじを読むがごとくに立ち上がってゐます。訳者があとがきにて、この未見の著者の人物像に関する推察を述べてゐますが、ひと月あまりの間に熱情を籠めて一気に書き上げられたもののやうです。私はすでに全詩を一通り読み通してゐたこともあって、各詩篇の訳文を読み飛ばしてゆくことが出来たので、明快な運筆による論旨と推断とを一層愉しむことができたのだと思ひます。さきに挙げた〝一去三十年 (田園の居に帰る)〟も、「三十年」ではなく出仕してから隠棲するまでの「十三年」の誤りではないかとする解説書が多いなか、「あっと言ふ間に三十歳になった」と、初出仕に至る年齢に解されてをり(74p)、これまた自分の履歴と被って嬉しかった。
松枝・和田先生が後年編んだ全集版とは異なる見解が多々開陳されてゐる本ですが、陶淵明が最も影響を受けた二人の族祖、陶侃(曾祖父)と孟嘉(外祖父)のことが述べられる初っ端から、旧套を脱した理路整然さに満ち、退屈することがありません。

「陶淵明が賛嘆崇拝した人物、受けた影響がきわめて大きい人物は、晋室に不忠であったばかりでなく、これに敵対した人物であったのだ。陶淵明が司馬氏の一族(晋室)にたいして忠であったかどうかは、もはや言わずして明らかであろう。」(50p)
「これまで人々が、陶淵明は晋の王室に忠誠であったと結論を下しているのは、たんに封建支配階級およびそれに奉仕する学者の幻想にすぎなかったといってよい。」(52p)

異論となるやうな考察は他にも、各詩がいつ作られたかを始めとして、反逆者にして芸術を愛し政権簒奪に失敗した桓温桓玄父子を、他の覇者たちにもまして惜しんでいるのではないかとか(118p)、参軍になった友人に「私と君とは語黙(進退)をことにする」と書いて覇者劉裕の元に下ったを詰る意味があったとか(187p)。果ては「旧居に還る」の「上京」を「健康:南京」とし(130p)、誕生日を正月五日と推測するなど(235p)枚挙にいとまがありません。

一見、主君への殉死を称へるやうな書き振りの「三良を詠ず」にしても、「忠情、謬(あやま)って露はる」といふ個所を各訳書とも「はからずも・はかなくも・幸にして」など、謙遜の意味で解釈されてゐますが、詩全体の主旨を「政権に軽々しく命を委ねてそれに殉ずるような真似をしてはいけない」と、著者が解釈してゐるのには賛成で、「謬(あやま)って」とは、自業自得の意をこめて哀しんでゐるやうに、これは私も読み比べをしてゐた時に思ったことでした。(242p)

さて、読んでゐて引き込まれたのは、現在とは違ふ当時の士族階級の人々の「風度」について。士族社会が軍閥社会にとって代はられ、権力の座から下ろされた旧勢力の人たちが、疑心に満ちた権力者によって次々に粛清され、従容と死に赴く様子が描かれてゐる『世説新語』を引いてゐる個所(43-46p)に書かれてゐますが、それからのち覇者となった劉裕(武帝)および子の文帝が、功臣たちを次々に抹殺してゆく条りにも目を瞠りました(190p,275p)。「田園詩人・隠遁詩人」といふ暢閑なのんびりした響きとは程遠い時代背景のもとに、長きに亘って詩人が生きてゐたといふ事実です。

王朝が革まると名前まで「潜(もぐる)」と改めてしまった陶淵明は、さうした政治舞台の危険から身を退け、ひたすら「遺老」として「固窮:君子はもとより窮するのが当然なのだ」といふ儒教的な生活信条を守ります。そして出処進退を繰り返したその果てに「帰りなん、いざ。」と、やうやく役人生活に決別し、ささやかな農耕生活へと入ってゆくのですが、これら粛清の嵐が止むことがなかった時代といふのは私には、何かしら第二次大戦が終って中国共産党が政権奪取したのち、多くの地主名家の人たちが段階的に断罪されていった、旧階級の運命を連想させてなりませんでした。
といふよりこの本、「人民」「搾取」なる定番の単語を始め「思想闘争」「階級的利益」「空想的社会主義」「唯物論の立場」等々、過去の学生運動時代に流行った左翼思想単語が飛び交ひ、左様の個所に遇ふたび時代がかった違和感を感じつつ読んでゐたのですが、なんと著者の李長之氏、1957年「百家斉放、百家争鳴」の時に「右派」のレッテルを貼られ、1966年に始まった文化大革命では「ブルジョア階級の反動学術権威」として吊るし上げられ、財産没収・強制労働の末、名誉回復されるのを待たず1978年、68歳で不遇のうちに亡くなってゐたといふのです。これには驚きました。※リンク「孺子の牛」ブログ

遥かな昔、秦の始皇帝を忌避した「商山の四皓」をもって自任し、己の理想を映した「桃花源記」といふお話も遺してゐる陶淵明です。かつての同僚だった劉裕が最終的に新王朝を興して独裁者となり、容赦のない粛清を始めたのを横目でじっと見守った沈黙。

「覚悟して、まさに還るを念ふべし。鳥尽きれば良弓は廃てらる(「飲酒十七」191p)」

この詩句を引いて「残忍な戦争に対する消極的な抗議(165p)」とし、「小有産者にありがちななまぬるさ(166p)」と言って批判してゐた著者でしたが、まさか彼と同様の暗黒時代に自分も生きてゐやうとは、自身が小有産者・知識人のレッテルを貼られ、同じやうな弾圧に遭はうとは、本書を脱稿した1952年当時、露ほども疑ふことはなかったことでしょう。伝記と共に書き下ろして末尾に付された「陶淵明論」には、次のやうな総括が書かれてゐます。

「彼が未来を見通しえなかったこと、農民の力を正当に評価しえなかったこと、当時の農民蜂起を十分に重視しえなかったこと、(中略)、こういう点からいえば、陶淵明は階級的制約を受けた人間である。だが一方、彼が飢えと労働との生活を体得したこと、封建搾取の社会の不合理を見抜くと同時に、封建搾取のない一個の理想社会の制度を描いたこと、(中略)、こういう点からいえば、彼の思想感情は、その大部分が抑圧された労働人民の思想感情を反映したものである。(中略)、その大部分において人民の代弁者であったのである。中国の詩人全体を見渡した場合、彼ほどに労働を体得し、そのなかで実践につとめた詩人を見いだすのはむずかしい。だからこそ、彼は最後には傑出した詩人、偉大な詩人となったのである。」(299-300p)

未来を見通しえなかったのは著者ばかりでない。この筑摩叢書が刊行された1966年、訳者の松枝・和田先生方もまた、著者を襲った弾圧の始まりや行方を知らずにゐたと言ふことになります。

陶淵明の人生については、以下のやうに簡明に述べてゐるので紹介します。

「もし、「士の不遇を悲しむ賦」と「帰去来辞」とを併せ読み、この二つが裏と表との関係にあることを読みとるならば、陶淵明についての真相は、十中八、九までつかめたことになる。
晋室・桓玄・劉裕の三者を比べてみて、陶淵明はむしろ桓玄のほうに傾いたが(中略)現実は、劉裕が勢いを得ている。そのため12年間の動揺・振幅は、ここに終りを告げ、かくて彼自身の、より成熟した 思想のあり方を示す22年間の農耕生活が樹立される。」152p
「桓玄が失敗したこと、これこそ陶淵明が「帰去来辞」を書いた政治上の真の動機であった」(陶淵明論)297p

そして伝記の終わりではかうも言っています。
「すこぶる曠達であって、すこぶる融通が利かぬ人物、これが陶淵明である。」278pと。

最後に「よみくらし」の締めとして、私なりにこれまで読んできて「素敵な表現だな」と思ひ線を引いてきた詩句を記念に留めて置きます。
ありがとうございました。

簣を進むこと微なりと雖も、終には山と為る。(長沙公に贈る)
人の宝とする所も尚ほ或は未だ珍ならず。同好有らざれば、云前(いかん)ぞ以て親しまん。(龐參軍に答ふ)
沮溺のは耦をともにす。(農を勧む)
終りを慎むこと始めの如し。(子に命ず)
爾の不才なれば、亦た已んぬるかな。(子に命ず)
昔侶なしと雖も、衆声毎に諧(かな)ふ。(帰鳥)
矰繳奚んぞ施さん、已に巻(惓)めり安んぞ労せんや。(帰鳥)
好事の君子、共に其の心を取れ。(形影神)
之を念へば五情熱す。(形影神)
甚だしく念へば己が生を傷つけん。正に宜しく運に委ね去るべし。(形影神)
喜ばず亦懼れず、應に盡くべくんば便ち須からく盡きしむべし。復た獨り多く慮ること無かれ。(形影神)
空しく時運の傾むくを視る。(九日閑居)
棲遅、固より娯しみ多く。淹留、豈に成るなからんや。(九日閑居)
少きより俗韻に適ふこと無く、性 本と邱山を愛す。誤りて塵網の中に落ち、一たび去ること三十年。(園田の居に帰る)
拙を守りて園田に帰る。(園田の居に帰る)
久しく樊籠の裡に在れども、復た自然に返るを得たり。(園田の居に帰る)
相ひ見て雜言無く 、但だ道ふ桑麻長ずと。(園田の居に帰る)
晨に興きて荒穢を理(おさ)め、月を帶び鋤を荷ひて帰る。(園田の居に帰る)
浪莽として林野を娯しむ。(園田の居に帰る)
吾が生、行くゆく帰休せんとす。(斜川に遊ぶ)
九重の秀は微(な)きと雖も、顧み瞻げば匹儔する無し。(斜川に遊ぶ)
銜み収めて何の謝すべきを知らん。冥報以て相ひ貽らん。(乞食)
緑酒に芳顔開く。(諸人と共に周家の墓の柏の下に遊ぶ)
来貺三復、罷めんと欲して能はず。(龐参軍に答へる)
人事は好く乖(そむ)く。便ち当に離を語るべし。(語らざるを得ず)(龐参軍に答へる)
人の理、固より終り有り。常に居りて其の尽きるを待つ。(五月旦作和三戴主簿)
運生は会(かなら)ず尽きるに帰す。(連雨独飲)
遥遥として白雲を望めば、古へを懐ふこと一に何ぞ深き。(郭主簿に和す)
陵岑に逸峯聳え、遙かに瞻れば皆奇絶。(郭主簿に和す)
寒気山沢を冒し、游雲倏ち依るなし。(王撫軍の坐に於いて客を送る)
語黙自ら勢を殊にす、亦た知る当に乖分するを。(殷晋安と別れる)
良才は世に隠れざるも、江湖には賤貧多し。(殷晋安と別れる)
人は乖き、運には疏とんぜらる。懐ひを擁す累代の下、言盡つきて意は舒びず。(羊長史に贈る)
紛紛として飛鳥帰る。(歳暮、張常侍に和す)
逸想、淹(とど)むべからず。猖狂、独り長く悲しむ。(胡西曹に和し顧賊曹に示す)
数在り、竟いに未だ免れず。山を為すに成るに及ばず。(従弟仲徳を悲しむ)
翳然、化に乗じて去り。(従弟仲徳を悲しむ)
人間、良(まこと)に辞すべし。当年、詎ぞ幾ばくも有らんや。心を縦にして復た何をか疑はん。(庚子の歳五月中、都より還るとき風に規林に阻まる)
閑居すること三十載。遂に塵事と冥く。詩書の宿好を敦くす。(辛丑歳七月、赴仮して江陵に還らんとして夜、塗口を行く)
長吟して紫門を掩(と)ざし、聊か隴畝の民と為る。(癸卯歳、始春に田舎を懐古す)
①千載の書を歴覧し、時時に遺烈を見る、高操は攀ずるところにあらざれど、謬りに固窮の節を得たり。(癸卯の歳十二月中に作り、従弟敬遠に与ふ)
総髪より孤介を抱き。奄ち出づ四十年。(戊申の歳六月中、火に遇ふ)
(泥棒無き世に)既に已に茲に遇はず。(戊申の歳六月中、火に遇ふ)
古より皆没するあり。これを念へば中心焦がる。千載は知る所に非ず、聊か以て今朝を永うせん。(己酉歳九月九日)
遥遥たり沮溺の心。(庚戌歳九月中、西田に早稲を穫る)
遥かに謝す、荷蓧の翁。(丙辰. 歳八月中、下潠の田舎に獲る)
偶々名酒有り、夕として飲まざるなし。(飲酒 序)
辞に詮次なし。以て歓笑と為さん爾のみ。(飲酒 序)
九十にして行くゆく索を帯び(※啓栄期)、(飲酒 其二)
②「固窮の節に頼らずんば、百世まさに誰をか伝ふべき。(飲酒 其二)
栖栖たり群を失へる鳥、日暮れて猶ほ獨り飛ぶ。(飲酒 其四)
弁ぜんと欲して已に言を忘る。(飲酒 其五)
一觴獨り進むと雖も、杯盡きて壺自ら傾く。(飲酒 其七)
聊か復た此の生を得たり。(飲酒 其七)
吾が生は夢幻の間、何事ぞ塵羈に紲がれん。(飲酒 其八)
願わくは君も其の泥を汨(みだ)さんことを。深く父老の言に感ずるも、稟気諧ふ所寡し。(飲酒 其九)
身を傾けて一飽を営まば、少許にして便ち余り有らん。(飲酒 其十)
顏生は仁を爲すと稱せられ、榮公(※啓栄期)は有道と言はるるも、屡しば空しくして年を獲ず、長に飢えて老に至る。(飲酒 其十一)
③少年より人事罕にして、遊好は六經に在り。行き行きて不惑に向んとし、淹留して遂に成る無し。竟に固窮の節を抱き、飢寒、更(へ)しところに飽く。(飲酒 其十六)
鳥盡くれば良弓廢てらる。(飲酒 其十七)
濁酒 聊か恃むべし。(飲酒 其十九)
且(しばら)く杯中の物を進めん。(子を責む)
舊穀既沒、新穀未登。(会ること有りて作る)
慨然として永懐す。今にして我述べずんば、後生何をか聞かん哉。(会ること有りて作る)
④斯濫は豈に志す攸ならんも、固窮は夙に帰する所なり。(会ること有りて作る)
酒中、適するもの何ぞ多き。(蜡日)
我が心、固より石に匪ず。君の情、定めて如何。(擬古 其三)
暮には歸雲の宅と作り、朝には飛鳥の堂と爲る。山河、目中に滿ち、平原、獨り茫茫。(擬古 其四)
この懐ひ具さには道ひ難し。君の為に此の詩を作る。(擬古 其六)
少き時、壮んにして且つ厲し。剣を撫して独り行遊す。(擬古 其八)
人生 根蔕なく、飄として陌上の塵の如し。(雑詩 其一)
時に及んで當に勉勵すべし。歳月、人を待たず。(雑詩 其一)
気変じて時の易るを悟り、眠らずして夕の永きを知る。言はんと欲して予に和するなく、杯を揮って孤影に勧む。
 日月、人を擲て去り、志あるも聘するを獲ず。此れを念いて悲悽を懐き、暁を終ふるまで静かなる能はず。(雑詩 其二)
氣力、漸やく衰損し、轉た覺ゆ、日びに如かざるを。(雑詩 其五)
昔、長者の言を聞けば、耳を掩うて毎に喜ばず。奈何ぞ五十年、忽ち已に此の事を親(みづから)せんとは。(雑詩 其六)
南山に舊宅あり。(雑詩 其七)
且く爲に一觴を陶(たの)しまん。(雑詩 其八)
萬族各おの託する有るに、孤雲獨り依る無し。(貧士を詠ず 其一)
朝霞宿霧を開き、衆鳥相ひともに飛ぶ。遅遅として林を出でし鳥、未だ夕ならざるに復た来り帰る。(貧士を詠ず 其一)
力を量りて故轍を守れば、豈に寒と飢とあらざらんや、知音苟しくも存せずんば、已んぬるかな、何の悲しむ所ぞ。(貧士を詠ず 其一)
詩書 座外を塞ぎ、日昃研むるに遑あらず。(貧士を詠ず 其二)
栄叟老いて索を帯び、欣然として方に琴を弾ず。(貧士を詠ず 其三)
詩を賦するに頗る能く工みなるも、世を挙げて知る者無く、止だ一劉龔あるのみ。此の士 胡ぞ独り然るや、実に同じくする所罕なるに由る。(貧士を詠ず 其六)
年饑えて仁妻の、泣涕 我に向って流せしに感ず。丈夫、志ありと雖も、固より児女の為に憂ふ。(貧士を詠ず 其七)
誰か云ふ、其の人亡しと。久しくして道、弥いよ著はる。(二疏を詠ず)
忠情、謬って露はるを得、遂に君の私する所と為る。(三良を詠ず)
君子は己を知るものに死す。(荊軻を詠ず)
圖窮まり事自ら至る。豪主正に怔營。惜しい哉、劍術疏にして、奇功遂に成らず。(荊軻を詠ず)
窮巷は深轍を隔て、頗る故人の車を迴らす。歡言しては春酒を酌み、我が園中の蔬を摘む。(山海経を読む 其一)
生有れば必ず死有り。早く終はるも命の促まれるにあらず。(挽歌の詩に擬す 其一)
但だ恨むらくは世に在りし時、酒を飮むこと足るを得ざりしを。(挽歌の詩に擬す 其一)
在昔 酒の飮むべき無く、今は但だ空觴を湛ふ。(挽歌の詩に擬す 其二)
死し去りては何の道ふ所ぞ。體を託して山阿に同じうせん。(挽歌の詩に擬す 其三)
此れ古人の翰を染めて慷慨し、屡しば伸ぶるに已む能はざる所以の者なり。(士の不遇に感ずる賦)
⑥寧ろ固窮以て意を済(わた)すも、委曲して己を累(わずら)わせず。(中略)
誠に謬会して以て拙を取るも、且らく欣然として帰止せん。(士の不遇に感ずる賦)
余は園閭に暇(いとま)多く、また翰を染めて之を為(つく)る。(閑情賦)
嘗て人事に從へるは、皆な口腹自ら役するなり。是に於いて悵然として慷慨し、深く平生の志に愧づ。(帰去来辞)
帰りなんいざ。田園将に蕪れなんとす。胡(なん)ぞ帰らざる。
 既に自ら心を以て形の役と為す。奚ぞ惆悵として独り悲しむ。
 已往の諫められざるを悟り、来者の追うべきを知る。
 実に塗(みち)に迷うこと其れ未だ遠からず。今の是にして昨の非なるを覚りぬ。(帰去来辞)
南窗に倚りて 以て傲を寄せ、膝を容るるの安んじ易きを審らかにす。(帰去来辞)
雲は無心に以て岫を出で、鳥は飛ぶに倦みて還るを知る。(帰去来辞)
孤松を撫でて盤桓す。(帰去来辞)
怡然として餘樂有り。(桃花源記)
書を讀むを好めど、甚だしくは解するを求めず。意に會ふこと有る毎に、欣然として食を忘る。(五柳先生伝)
常に文章を著して自ら娯しみ、頗る己が志を示す。懐ひを得失を忘れ、此を以て自ら終る。(五柳先生伝)
性は剛にして才は拙、物に忤ふこと多し。自ら量りてを己が為にせば、必ず俗患を貽(のこ)す。(子の儼等に與ふる疏)
少年來、書を好み、偶々、閒靜を愛す。卷を開くに得るところ有れば、便ち欣然として食を忘る。(子の儼等に與ふる疏)
余、嘗て学仕し、人事に纏綿す。流浪して成すなく、素志に負かんことを懼る。(従弟敬遠を祭る文)

【悠々・悠然】
悠々たる我が祖 (命子)
悠然たり其の懐ひ (帰鳥)
悠々たり東へと去る雲 (殷晋安と別る)
悠々秋稼を待ちしも (胡西曹に和し顧賊曹に示す)
悠然として復た帰らず (癸卯歳始春懐古田舎)
悠然として南山を見る (飲酒 其五)
悠々の談を擺ひ落し (飲酒 其十二)
悠々たるものは留まる所に迷うも (飲酒 其十四)
宇宙一に何ぞ悠たる (飲酒 其十五)
世路、廓として悠々 (飲酒 其十九)

【固窮】
② 千載の書を歴覧し、時時に遺烈を見る、高操は攀ずるところにあらざれど、謬りに得たり固窮の節」(癸卯の歳十二月中に作り、従弟敬遠に与ふ)
②「固窮の節に頼らずんば、百世まさに誰をか伝ふべき」(飲酒 其二)、
③ 竟に固窮の節を抱き、飢寒、更(へ)しところに飽く」(飲酒 其十六) 、
④「斯濫は豈に志す攸ならんも、固窮は夙に帰する所なり。(会ること有りて作る)
⑤「誰か云ふ、固窮は難しと、邈かなるかな、この前修」(貧士を詠ず七)、
⑥「むしろ固窮してもって意を済ふも、委曲して己を累はさざらん」(士の不遇を悲しむ賦)。                     (終)

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