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冨長覚梁先生

 詩人の冨長覚梁先生が4月1日に亡くなられた。新聞(4/3中日新聞朝刊岐阜県版)の訃報を友人から知らせてもらひ吃驚してゐます。89歳で老衰とのことですが、卒寿の大往生とよんで差し支へないでしょうか。

 郷土岐阜県詩壇の重鎮でした。わが職場だった大学にも非常勤講師としてお越しになり、当時あった文学部国文学科で詩の講義をしていただきました。豊橋に隠棲した生前の丸山薫を御存知で、慕はれ、交流もあったといふことで、一職員ながらおなじく『四季』の同人だった田中克己を師と仰いでゐる私から御挨拶さしあげたところ、親しく応へて下さいました。丸山薫を戦後の第4次『四季』の盟主に担いだ潮流社の八木憲爾社長ともお知り合ひであったやうです。
 先生の詩業をよく知らず、詩作も止めてゐた私には気後れがありましたが、謦咳に接し得た期間にもっと話しかけてゆけばよかったと後悔してゐます。後年お送りした拙詩集を、唯一新聞紙上で紹介してほめて下さった方でもあり、御自宅への御礼挨拶を思ひ立ったものの、やはり気後れして事前にご連絡することができず、突然推参したものの生憎お留守で、その後豊橋であった詩人の会で御挨拶させて頂いたのが最後となったことが悔やまれます。

 御尊父の冨長覚夢(蝶如)翁も、そのお名前から察せられるやうに寺院(真宗大谷派長願寺)の御住職であり、1956年から3年かけて完結に導いた『梁川星巌全集』編集の功労者にして、岐阜に限らぬ広く東海地方全域の旧世代知識人の師表として仰がれた漢詩人であってみれば、四季派詩人に次いで郷土漢詩人にも私淑するやうになった私としては、謂はば二代に亘っての学恩を蒙ってゐるといってよい訳です。

 冨長覚梁先生の現代詩の詩業も1960年代にまでさかのぼる長いものですが、多くの戦後現代詩詩人のなかで抒情詩に回帰されたひとたちと同様、冨長先生においても、初期の作品にみられる「戦後詩らしい詩語」を駆使した「露悪的な自然主義の発想」によって歌はれたパッションが、思考の内側に沈められ、身の周りの自然を凝視してゆく程にやさしい言葉遣ひとなって深まってゆく後年の詩境に、より多くの共感を覚えます。
 御自身でも思ひ当たるところがおありになったか、日本現代詩文庫の自選アンソロジー『冨長覚梁詩集(1993年)』には、第一詩集『みみずの唄』からの選詩は見当たりませんが、冒頭のタイトル詩「みみずの唄」は次のやうなフレーズで始まるものでした。

 切られ切られて
 しかも生きつづけている無数のぼく
 ぼくの中でぼくの姿を
 もっとも知っているぼくは
 どこの馬糞の堆積の中にいるのかい

 さて、旧抒情詩壇のビッグネームである丸山薫がいつまでも東京に帰らないでゐると知ってこれをつかまへ初代委員長に推して興った中部日本詩人連盟。いったいに地方詩壇は中央の政治的思惑からは比較的自由でありました。推重された彼自身は、疎開先だった山形岩根沢とは異なり、ここ名古屋圏のモダニズムや新民謡を生んだ文化風土にはあまり泥むことはなかったやうに感じます。それはそれまでに活躍してゐた中京地区の同年代詩人たちより、若い新しい詩人たちとの交流を大切にしたやうなところにも窺はれます。
 アプレゲール世代の詩人たちは当然、戦後詩の洗礼を受けて詩を書き始めた者ばかりでしたが、戦前期に「砲塁」「水の精神」「朝鮮」などの詩を書き、終生「物象」への思慕思索に焦がれたエトランゼ詩人丸山薫を、戦犯詩人として指弾する若者はなく、一方丸山薫も彼らの清新な息吹を評価しつつ、詩壇回顧の機会があれば、戦前抒情詩の意義を一歩も譲らず説いて動ずることはありませんでした。
 さういふ先人が身近に居ったこと、それが冨長覚梁先生に浸透して変質を促し、時を経てもっとも良質な垢抜けた抒情に凝ったやうに、私には思はれてなりません。
 先生自身が「詩人に少年と老年の日はあっても青年と壮年の時代はない」といふ丸山薫の言葉を引いて偲んでをられますが、詩とは青春期の特権でなく詩人とともに成熟してゆくこともある、などといふ口幅ったい感想を、詩を書くのを止めた私が晩年の詩作に勤しんでをられる先生に申し上げられる筈もありませんでした。

 冨長先生の詩集から好きな作品を三つ挙げて偲びます。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

  地蔵の眼

何万という鰯が北海に生まれる
崖に建つ地蔵は眼を閉じたまま

何千という鰯が網にかかる
地蔵は眼を閉じたまま

何百という鰯が目刺になる
地蔵は眼を閉じたまま

何十という鰯が
魚屋で売られている
地蔵は眼を閉じたまま

二匹の鰯が女の手によってやかれている
地蔵はそっと眼を開けたものの
やはり地蔵は眼を閉じたまま


  春の川

雪解けの水が流れ
かすかにゆるんでいく流れに
水草は乙女のはじらいにも似て
かすかな吐息をはく

川ばたの草たちは
水草の吐息に呼応して
眠りからさめて
春のところへ伸びていく

そのうるわしい草たちの姿を
見かえすように
春の川は流れを
ほんのすこしとどめることがある


  障子越しの風景

誰の誘いでやって来たのであろう
庭の池に一羽の青鷺が降りて来て
身を整えている

厳しい寒さゆえに寡黙がちになっていく
北国から渡ってくる雪の言葉の命を
拾うように
一人の男が障子の内側で
枯れ葉のような紙に遺言を書いている

 湯濯をするな 死んでも人に知らせるな

鉄瓶の音が遺言の一字一字に
命を注ぎこむように渦巻き
選ばれた言葉が
みずからの痛みの囲りをめぐっている

一羽の青鷺は動く様子もなく
降っては積っていく雪の冷たさが
障子の色を変えていく
障子の外側の廊下には
衣ずれの音は消え
軒下の赤いポストには
送り先も差し出し人もない
一の手紙が咳込んでいる

 骨を拾うな さよならを言うな

精神の震えの中で
肉体は言葉の構築していく
一つの塔となり
部屋の中でうっすらと輝きはじめ
冬の障子に影を映す

 手を合わすな 名を伝えるな

障子に映った塔の九輪のあたりに
遺言の文字が重なり
雪の舞う夕暮れの中で
水仙の花のように香る

障子越しに文字は
障子の内側で男は眠りに入り
雪たちが小さな命となって降り積り
すっぽりと遺言の風景をつつんでいく
青鷺はいつ明けるとも知れない
障子越しの風景に向かって
今日を身を整えている

2015年10月21日 豊橋にて

「死んでも人に知らせるな」
「手を合わすな 名を伝えるな」
「さよならを言うな」

      無理です。

 丸山薫へのレクイエム  『冨永覚梁詩集』より

 私がはじめて丸山薫に会ったのは、昭和四十六年の夏であった。作品などを通して、痩身の詩人を想像していた。しかし、そこには終始微笑をたたえながら静かに会話を楽しむ風格があり、この詩人はどっしりとした体格の持ち主であった。その時の意外な感慨は今も忘れられない。同じ夏の終わりに次のようなはがきをいただい た。
「私は生来カミナリサマが大きらいです」
私はまたしても先とはちがった意外な気持ちに落ち入ってしまった。そして一人微笑していたのを思い出す。あの巨軀にありながら、カミナリサマがこわいという、この詩人の心奥にあるものは何か。私はこの謎を背負いながら、はじめから詩集を読み直した。そしてその謎なるものは、「近代文明社会になじめない未開の魂」だということに気がついた。この詩人の心の奥にひそむとらえがたい恐怖の感情、原始的心性のごときもの、これこそ三好達治、堀辰雄といった抒情詩人と区別する重要なモメントではなかったかと思う。それは北原白秋にある本能的に戦慄するナイーブな感情ともちがう。そこには「物象」への追求欲と郷愁とが骨格となっており、抒情のかげをいっそう深いものにしている。
 四十九歳で出した詩集「花の芯」の中で、「詩人に少年と老年の日はあっても、青春と壮年の時代はない」といっている。私はこの詩句を味わいながら思う。いつまでもカミナリをこわがる「少年丸山」には、もう一人の丸山薫がいたのではないか。青春を単なる思い出として感傷するのではなく、青春を老年の中に受胎している詩人丸山薫がいたのではないかと。寸時も休息することなく、自分をとぎだしていく詩人。この詩人の作品が常に乾き、健康的だといわれるのは、こんなところからではなかろうか。
 この詩人は私に「詩は朝書きなさい」とよく忠告してくれた。夜という閉ざされた特殊な雰囲気の中で書かれた作品を、朝見なおした時のみじめな気持ちは、だれしも思いあたるところである。朝の日差しの下で、なお読むにたえうる作品を書くことのなんと困難なことか。今になって、この忠告の重さと有難さとをいっそう感じるとともに、この言葉は老いてもこの詩人が、自分を鞭打っていた言葉であったのだと、しみじみと思うのであ る。こういう中から生じた作品であるだけに、読むごとに新鮮さと健康さとをもって、その世界を深めてくれ る。
 私は机の横に飾ってあるこの詩人の、ほほえんでたばこをくゆらしている優しい写真をみつめている。一瞬、 詩人が肩を少々丸めて、この部屋から抜け出て、船のある港へ抜け出ていったような気がする。一種の寂寥感が部屋にただよう。でも本棚を見返した時、あの笑顔がそこにある。

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