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『詩と思想』2023年7月号「特集:抒情詩の学び」

 『詩と思想』2023年7月号は「抒情詩の学び」とのことで、『四季』に集った伝統派の抒情詩が特集されました。趣旨は「四季派詩人を中心に、今抒情詩をどう学ぶか」。
 「学び」とあるやうに、この度は戦後詩史のかなたに水没した「四季派抒情詩の大陸棚」の詩情を、書き手意識から探るべく、令和の実作詩人たちからの考察と感想とが集められてをり、拙サイトからもデータ引用して頂いたやうで感謝です。
 最初に掲げられたのは、「四季派抒情詩に学ぶ」ために集まった詩人四者による座談。
 謙虚すぎるタイトルですが、雪柳あうこさんの「現在私たちが使っている言葉は、おそらく百年前の体感とはズレている」との発言に注目しました。
 青木由弥子さんは、現代詩といふものは「今「これが詩だ」と言われているところから逃れようと…そこから外れてゆこうとして拡張してゆく」性質があると云ひ、それがために難解となってしまった「理性というものは、突き詰めていくと間違えた時に大変なことになる」と、批判精神がよりどころとしてゐる理性に注文を入れ、その一方で「感性というのは、…盲目的に煽られると大変」とも指摘してゐます。
 詩には社会に対する態度、突き詰めていくと反権力的でなくてはならぬといふ、一見理性的にみえる当為(ねばならぬ)も、敗戦直後の日本人の偽らざる感性によるところのものであったと私などは思ひ、今回はあくまで「学び」といふことで殊更「戦争責任」に深入りしてゐませんが、「四季派の詩には思想性、社会性が薄いという批判」の果てに、抒情詩が縁遠くなってしまった事情については、やはり年配の詩人に参加してもらって深掘りして頂けたら、との思ひがよぎりました。
 しかし考へてみると実体験を話すことができる世代はもとより、批判を連ねてきた人たちさへ退場しつつあるなか、「新しい戦前」と呼ばれる不吉な時代における本企画であることに思ひ至ります。そんななかで四季派詩人の詩想形成の過程については、伊東静雄と格闘され先達て一書『伊東静雄: 戦時下の抒情』を著した青木さんが、正鵠を射た分析をわかり易く説かれてゐたやうです。
 
 続いて「抒情詩の学び」といふ課題的視点から選ばれた「四季派抒情詩短篇アンソロジー」が置かれ、これを読んだ令和現代詩の書き手たちによる、自由な感想と考察とが綴られたエッセイ群がならびます。
 個人的には森雪拾さんの一文が、ビートルズの面々にオマージュを捧げて回る新しいファンから新曲を披露されたやうな感じがして、オールドファンの耳に心地よかったです。
 しかし「アンソロジー」には、萩原朔太郎を始め、室生犀星、佐藤春夫、そして伊藤整と、抒情詩人ではあるものの四季派の代表としては疑問が残る人たちの、いつ書かれたものか明示もない、おざなりな有名詩や的外れの感じのする詩も選ばれてをり、縁遠い詩境から話柄をみつけてもらふ為なのでしょうが、ちょっと残念でした。
 『四季』の幅広さを示すためならば、杉山平一を入れたのであれば、ここは有名な詩人より小山正孝や大木実、日塔聡・貞子など『四季』の下で育ったマイナーポエットたちを、また知られてゐないもののより四季派らしい作品を集めて感想を求めた方が目新しくもあり、面白かったのではなかったか。そして編集同人でありながら田中克己が外されたのも、拙サイト管理人としてやはり残念でした。「西康省」のやうな長い詩もありますが、初期の短い傑作、たとへばユーミンの詞を先取りしたやうな
 
 昼          (昭和7年10月 コギト 6号『詩集西康省』所載)
ソオダ水をよぎる雲
葡萄にゐる蟻
睫毛には陽のかげりの濃さが
 
 このやうな短詩なら入れて頂ける余地があったかもしれません。
 
 総じて今回の特集ですが、寄稿者はともかく「学び」のコーディネートに至るまで専門研究者に頼らなかったのは、気概よしとするもよかったのかどうか。締めの論考も、詩学的な堅い内容を限られたスペースでなるべく分かり易くと書かれたものでしたが、四季派の「学び」としては、最初に挙げられる筈の堀口大学の訳詩集『月下の一群』も、結局どこにもだれにも触れられず仕舞ひでした。
 そして研究者に頼らずとも、たとへば丸山薫が『日本詩人全集 第8巻 昭和篇(3)(創元文庫1953)』の巻末で「四季派」呼称が行はれるやうになった当時に書いた解説(※リンク)などを引いて、当事者の思ひを直接届ける方法もあったのではないか、といふのが正直な感想です。
 
 特集に合はせたのかどうか、一方で松本憲治さんの木下夕爾論の連載が別途始まったのは嬉しい人選です。師匠筋を異にし『四季』同人になることがなかったものの、四季派の呼吸のもと戦後、気を吐き続けたのはいちばんにこの人だった訳ですから。
 今回、中原中也や立原道造といった言及されすぎて手垢のついた有名詩人をかいなでするより、現代詩に靡くことのなかったこの地方詩人を中心に、さきに示した「当時の若者詩人」たちの自恃と含羞とを実直一筋で結晶させた抒情を、令和に詩作する詩人たちがどう受け止めるのか、「学び」としては中途半端な成果以上の、面白い結果が得られたのではないかと愚考した次第です。

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