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小網恵子詩集『不可解な帽子』

このたび刊行された小網恵子氏の詩集『不可解な帽子』を拝読しました。
前詩集『野のひかり』より7年余。踏襲されたのは清楚な装釘だけでなく、純度を一層増したやうにも感じられる、若々しい抒情詩のもたらす読後感。
巻頭の「春」から続けざまに「水の道」「下山」「バスを待つ」、下って「苺ジャム」の各詩篇の調べに惹かれました。
 

水の道
 
山から流れ出て
いくつもの橋の下を通り
この町にやってきた
かつての宿場町は道の中央に水路が走る
さわさわと音立てる水に寄り
幼子が二人屈みこんでいる
水の筋がきらめく
萌え出した草の葉をちぎり
おまじないのような言葉をかけて
水路に投げ込む
 
以前、若いお母さんから聞いたことがある
水の流れる音を聞くと
泣き止むという赤ちゃん
洗濯機の水流や
台所の蛇口からほとばしる水音
この世に生まれ出る前に
水の中で過ごした時間を
記憶しているのだろうか
 
幼子がまた新たな友達を呼んできて
水路のへりに数珠のように繋がって
流れを覗き込んでいる
この子たちの耳奥に蓄えられる水音
一人が立ち上がって
菓子店の店先へ向かうと
また数珠玉のようにみんな繋がって走っていく
 
 
 
下山
 
石の上に止まる蝶
茶色の翅を正しく折り畳んで
動かない
私たちはそばの石に腰かけて
水を飲み終えると
知り合いの訃報について話した
しばらく連絡の途絶えていた人だった
 
稜線の雲が
矢印のような形をほどき流れていく 
蝶は成虫になって二週間ほどしか生きられないと聞くから
この五分ほどは長い休息
 
石高道が続く
昨年より足運びがおぼつかなくなって
さらに下りてゆくと
小さな池が透き通った水を湛えている
池の端に数匹のアメンボがいて
細い小枝のような手足をさっと動かして進む
隣りのアメンボが近づいて来ると
お互いの水の輪がぶつかって広がっていく
水面に色の無い花火が描かれ
消えていく
 

他の作品に於いても、自然・景物に対する着眼点(「砂浜」「種屋」)、言葉の組み合せと転調の妙(「梅公園」「緑さす」)に、初めて針を落すレコードの楽曲に覚える、ハッとするやうな喜びを前作同様味はひました。(別添栞に印刷された「潮だまり」も素敵。)

詩集タイトルを彷彿させる「帽子」といふ詩篇があるものの、私のやうな“山好き”には、「水の道」や「下山」のやうな自然の営みをつよく感じさせる作品がこよなく懐かしく感じられます。(「水の道」の水音は「さわさわ」より「ごぼこぼ」とでもすれば尚リアルになったのではと愚考。)「下山」冒頭の導入部も素晴らしい。次いで「稜線の雲が矢印のような形をほどき流れてゆく」といふ条りには、自らの詩作経験も髣髴され、抒情詩人としての手腕に唸りました。

イメージを放し飼ひにすることなく、求心的な詩作態度を堅持しながら、一方で理にも落ちぬやう、言葉の選び方に細心の注意が払はれてゐるのがよくわかります。時とともに古びることのない抒情を追求してゐることに、実作から退いた十年後輩の私は敬服するばかりです。

身の回りでは小網氏と同年代の先輩方による『四季』の流れを継いできた詩誌『季』が、昨秋115号を以て終刊(自然消滅)することを仄聞してをります。老成を感じさせぬ、当今得難いすぐれた抒情詩の書き手である小網氏には、益々の御健筆をお祈り申し上げる次第です。ここにても厚く御礼を申し上げます。

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