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恋するポエジイ 1990年7月。

☆7月2日。ヘルマン・ヘッセ氏の誕生日。イニシャルがH・Hになるのはハインリッヒ・ハイネ氏と同じ。ライナー・マリア・リルケ氏はR・R。ロマン・ロラン氏もR・R。彼らの狙いは何だろう? 繰り返すこと。反復。日本人では中原中也氏。漢字の「中」を繰り返す。わたくしの本棚には彌生書房の『新ヘッセ詩集』がある。高橋健二氏の訳。世界の詩シリーズの第一巻として刊行されたもの。彌生書房はまずこれを読めと云っているわけだ。詩人になろうと思うならヘルマン・ヘッセ氏の作品を知らねばならないと。行分けなしで引用する。《私たち七月に生まれた子らは白いソケイの香りを愛する。私たちは花咲く園にそい、静かに重い夢にふけってさすらう》(20頁)。「七月の子ら」と題する詩の第一連である。第二連は《真紅の色のケシは私たちの兄弟。ケシは麦畑の中に、熱い塀の上に、ゆらぐ赤いおののきのうちに燃えている。やがて、風がその花びらを吹き払って行く》(同頁)となる。

☆「赤いケシ」と「白いソケイ」の対比。赤と白のテーマがきちんと記されている。そして結びの第三連。《七月の夜のように、私たちの一生も、夢を重く担ってその輪舞を仕上げよう。夢とあつい収穫の祭りに身をまかせ、麦の穂の赤いケシの環を手に持って》(21頁)。この詩は宮沢賢治氏の「銀河鉄道の夜」とどこかで共鳴している。夜と夢と祭り。7月のスタートにふさわしい詩だ。きのうはうす曇りのなか大学の仲間たちと海へ出かけた。しっかり日焼けした。朝は肌寒かったのでわたくしは水着を持っていかなかった。結局ジーパンで海に飛び込んだ。仲間とわいわいやることが楽しくて。いつの間にか発情期に入っていた。わたくしが発情するとなぜか蝶々がひらひらと寄って来る。それが兆しなのだ。男子は女子と仲よしになりたくて。でも単身だと怪しまれるからグループというオブラートに包まれる必要があって。誰からともなくイベントが企画され集団行動を取る。赤を追う白たち。

☆男と女が単体で近付くよりも男の子たちと女の子たちの集合体で近付くやり方にはたくさんの副産物が付いてくる。例えば告白に失敗した時ごまかしが効く。ダメでもフォローがある。挽回のチャンスもある。チンパンジーと祖先を同じくする人類はグループ交際的動物だ。しかしわたくしはリビドを抑えなくてはならない。個人の利と美を今は諦めなくてはならない。輪舞はしない。収穫の祭りに身をまかせない。学問に集中すると決めたのだから。ここが正念場。発情期よ。早く過ぎ越してくれ。水着を見てしまったのがいけない。なぜ人は浜辺だと平気で服を脱ぐのか。パスカル氏ならお前は未来を見ていると叱ってくれるだろう。水着の先にある裸を。これは利益を求める精神だ。さらに過去と比べておるなと指摘してくれるだろう。服を身に纏った姿と水着姿を比べて。これは美を求める精神だ。利美度を計れ。こうして男という観察者は女性の現在を見失う。今を生きることを忘れる。

☆参加してくれたF・ナガコ氏とS・ハルミ氏とS・メイ氏。わたくしの可愛い三人娘。素敵なボーイフレンドが見つかりますように。目に焼きついているのはS・メイ氏の笑顔。わたくしはズボンを乾かすためにパンツいっちょのハレンチな姿に。タオルを腰に巻いていたからセーフ。周りの男子はアウトだと云った。みかねたS・ハルミ氏が着替えの予備に持参していたガウチョパンツを貸してくれた。わたくしは前からスカートに憧れていた。ガウチョでもいいなあという感想を持った。7月3日。フランツ・カフカ氏の誕生日。カフカという苗字にも繰り返しがある。KAの反復。漢字で可不可と記す事ができるのもいい。氏には三人の妹がいた。しかしアウシュヴィッツ強制収容所の犠牲者となってしまった。また氏には三人の恋人がいたが婚約解消をくり返したという。カフカ氏を知ればきっとわたくしの人生の謎も解けるのではないか。そう思わせるエピソードに事欠かない。まことに不可思議な人物である。

☆ヘルマン・ヘッセ氏の8年後に生まれたフランツ・カフカ氏。氏の父親の名はヘルマン・カフカ。関係はないと思うが。息子の人生にいちいち介入する強い父性の持主だったと云う。この父子関係は宮沢賢治氏の父子関係に類似している。わたくしとパパとの関係とも類似している。M・マサカズ氏の父子関係もこれに近い。父なるものとどのような関係と距離を持つか。仕事や恋人や住所や生き方を選ぶ際に否応なく影響してくるのがこの問題。一体父とは何だろう? 神の代理か。社会の入り口か。理想の模型か。宿敵か。新潮文庫の『変身』(高橋義孝氏の訳)には次のような記述がある。《小さな赤い林檎は電気仕掛けみたいに床の上をころげまわってぶつかりあった。そっと投げられた林檎の一つが背中をかすったが、べつに背中には異状なく林檎は滑りおちた。ところが第二弾が背中にぐさりとめりこんだ》(66頁)。主人公グレーゴルは父親に林檎を投げつけられて致命傷を負う。ここでもやはり赤い林檎が。

☆そのあとの記述も重要だ。《目が見えなくなる直前、自分の部屋のドアが開かれるのをやっと見ることができた。なにごとか叫ぶ妹のうしろから母親が走り出てきた。下着のままだった。気絶状態でいたときに呼吸を楽にするために妹が着物をぬがせておいたからである。母親はそのなりで父親めがけて走りよった。そのあいだに紐や留め金のはずされたスカートなどが一枚一枚床にずり落ちた》(66頁)。子の視線を見事に描写している。変な時間に目を覚まして両親の寝室を覗いてしまった経験のある子どもの視線である。父性の暴力。置き去りにされた孤独。虐待。エディプス・コンプレックス。家庭内暴力などの問題がこの場面に凝縮されている。フランツ・カフカ氏の文学はフロイト氏の精神分析学とサルトル氏の実存主義哲学の間に挟まれているように思う。この三者はユダヤ人の問題と深く関わりがある。わたくしの学力で果たしてどこまで掘り下げることができるだろう。ユダヤ教について。

☆7月7日。グスタフ・マーラー氏の誕生日。氏もまたユダヤ人であった。のちにキリスト教に改宗。浪人時代わたくしはマーラー氏の交響曲を聴き続けた。どうしてこんなに好きなのか自分でもうまく説明できない。誰かから薦められたわけでもないのに。CDが一枚一枚増えていった。最初に買ったのはレナード・バーンスタイン氏が1987年にニューヨーク・フィルハーモニックとやった第2番ハ短調《復活》である。解説によるとマーラー氏が2番を構想したのが1887年。6年後の1893年7月8日に『魚に説教するパドヴァの聖アントニウス』の詩に作曲し。そこから楽想をとった第3楽章を16日に書き始め。19日には『子供の不思議な角笛』の歌曲「原光」ができる。これは第4楽章に。そして30日に第2楽章が完成する。こうして100年前に作られた作品をユダヤ人であるバーンスタイン氏が現代に再現。それを聴く。7月に聴く。100年の重みと軽さ。復活願望。

☆マーラー氏は1910年にフロイト氏の治療を受けた。妻との距離に悩んでいたらしい。氏は指揮者としての仕事の傍ら主に夏休みを利用して作曲していた。夏の避暑地で森の中を歩きながら曲想を練っていたのであろう。わたくしはそのスタイルにも共感する。制約の多い中で創作の炎を燃やし続けること。ほんとうに作りたいものがあったからできる事だ。それに氏の音楽には数え切れない要素が詰まっている。ドンチャン騒ぎやすすり泣き。浮かれた気分や沈思の時間。予測不能な急展開。文明と伝統。モダニズムと古典。そういう混ぜこぜや混沌に大きな特徴がある。文学と宗教。東洋と西洋。微生物と天体。地球の出来事をまるごと表現しようとしているのかも知れない。そして時折この上なく美しい旋律がカタルシスへといざなう。マーラー氏は51歳になる2ヶ月前に亡くなっている。ああ30年後のわたくしよ。長生きをしておくれ。人生は短い。どこまでも芸術を求めて。

☆7月7日はマルク・シャガール氏の誕生日でもある。奇しくもマーラー氏が交響曲第2番を構想した年に生まれている。シャガール氏はロシアで生まれフランスで画家になりアメリカに亡命したユダヤ人である。戦後にフランスに戻って帰化した。ナチスの迫害を逃れた科学者や芸術家のことを少し調べてみたくなった。M・マサカズ氏は云っていた。アドルフ・ヒトラーのやったことはしっかり学んでおかなくちゃ。ホロコーストについて日本人は無関心だから。ユダヤ人について説明せよと云われたら答えられないだろ。差別の根源に目を向ける必要があるよ。そして岩波新書の『非ユダヤ的ユダヤ人』を薦めてくれた。著者はアイザック・ドイッチャー氏。ユダヤ人でありながらユダヤ教徒の生き方を超えようとした人びとについて書かれている。ドイッチャー氏は子どもの頃に読んだ逸話に出てきた異端者の一人エリシャ・ベン・アビュー氏という人物に惹かれたと云う。

☆《このユダヤ人村の境界を越えた異端者エリシャも、またユダヤの伝統に属していた。この異端者は、近代思想に大きな変革をもたらした大思想家──スピノザ、ハイネ、マルクス、ローザ・ルクセンブルク、トロツキー、フロイト──等の原型であるとも考えられる。かれらはすべてユダヤ人社会の限界をのり越えていった。かれらはすべてユダヤ人社会があまりにも狭量で、古くさく、圧制的なものを宿していると感じた。かれらは一様に、ユダヤ的なるものを越えて理想とその現実を求めた。かれらの中には近代思想の最も偉大なるものが圧縮されている。それは過去三百年の哲学、社会学、経済学、政治学の中に起った深刻な変動の縮図でもあった》(35頁)。ユダヤ人はどこの国にも存在する。しかしそれぞれの国に溶け込んで見えなくなってしまうことがない。そしてそこからはみ出て来た才能が革新的な思想を生み出していく。実に不思議なメカニズムだ。世界史の中のユダヤ人の役割。

☆ドイッチャー氏はマルク・シャガール氏についても次のように言及している。《シャガルのキリストは常にユダヤ人の祈祷のショールをまとい、時には貧しいヴィテブスクのユダヤ人の布製の帽子をかぶり、ぼろのズボンをはいている。かれの下には、地上にあって恐怖におびえて逃げまわるユダヤ人大衆がいる。シナゴーグと聖典の巻物は火や煙りの中にまいのぼってゆく。そしてキリスト教的絵画の中ではすべて苦難がキリストに集中され、キリストの十字架によって克服されているのに反して、シャガルの十字架ではキリストは苦難に打ちかっていない》(208頁)。イエスもまたユダヤ人あることをわたくしたちはつい忘れてしまう。シャガール氏は苦難の中にいるユダヤ人の一人としてイエスを描いた。そのことを知っておくのはとても重要だ。《そしてシャガルはキリストをユダヤの歴史の中にひきもどしているのである》(同頁)ともドイッチャー氏は述べている。

☆7月19日。エドガール・ドガ氏の誕生日。本名はイレール=ジェルマン=エドガール・ド・ガス氏である。いずれにしても名前にドガの反復がある。マルク・シャガール氏とは対照的にドガ氏はパリで生まれたパリっ子。但し祖父はナポリで成功した人物であったためイタリアとフランスを幾度も行き来している。年譜を見ていて気になったのは1854年(20歳)にアングル氏の弟子のアトリエに通いはじめ。翌年念願のアングル氏との邂逅を果たし助言をもらったという出来事。次に1879年(45歳)にピサロ氏やカサット氏と版画小冊子「昼と夜」を計画していた事。1894年(60歳)に若き詩人ポール・ヴァレリイ氏と会った事。そして1917年(83歳)に死去。ドガ氏は目が悪く。70歳の頃にはほとんど視力を失った状態となる。晩年の孤独を思うととても切なくなる。それでもマネ氏やルノアール氏といった印象派の画家たち。詩人のマラルメ氏。作家のゾラ氏などと交流があって。

☆アメリカからやって来た10歳下の画家メアリー・カサット氏から尊敬され一時期でも共に絵の研究をした。だから本人次第ではもっとにぎやかな晩年を送れたのではないか。アプローチがうまければメアリー・カサット氏と結ばれてもっと幸せになれたのではないか。しかしドガ氏は孤独を選んでしまった。そこにリビドの制御が働いていたのではないか。利を捨て。美を求めた。にもかかわらず目が障害となった。なにか耳を悪くしたベートーヴェン氏にも似た悲しみがある。独身を通さなくてはならない理由がそこにあったのかも知れない。筑摩書房の『ドガに就て──ドガ・ダンス・デッサン』という本を借りた。ポール・ヴァレリイ氏の名著の一つである。訳は吉田健一氏。吉田氏はこの本の完成を見ないまま亡くなってしまったとの事。だから吸引力が凄い書物になっている。開いたら閉じる事ができなかった。ドガ氏のありのままの姿。そしてその精神を詩人が巧みに描ききって見せてくれている。

☆《ドガはごくわずかなことにしか好意を持っていなかったが、ことに批評とか種々の理論とかを軽蔑していた。彼は常に、ミューズたちは決して彼女たちの間で議論したりなどしない、と言っていた、そして晩年に至ってはそれがくどくなる時さえあった。ミューズたちはめいめい自分の仕事に一日中没頭している。そして夕方になって仕事がすむと、再び一緒になるのだが、その時は彼女たちは手を取り合って踊り、お互いにしゃべったりなどはしないのである》(13頁)。芸術家のあるべき態度がここにあるのかも知れない。理論に走ってしまうのは芸術の神に見離されてしまっているからか。《ドガはことアングル氏に関する限り、いかなる批評も許さなかった。或る日誰かが、この大家が描く人物は皆亜鉛で拵えられているみたいだと言った時、ドガは即座に答えた、「そうかも知れない……。しかしもしそうだとすれば彼は天才的な亜鉛屋なのだ。」》(59頁)。

☆《アングルはその紙挟みの中のドガの習作を幾枚か眺めてから、彼に次のように言った。「悪くはありません。それで言いますが、実物を模写することはお止めなさい。そして記憶に頼って、或は名匠の版画を手本にして勉強するようになさい。」》(66頁)。記憶に頼って。なんと豊かな警句であろう。こうしてドガ氏は目に焼き付けるようにして踊り子たちを見つめたのではないだろうか。そして記憶に頼って描いてゆく。絵が写真には写せないものを描くためにはこの方法しかない。氏にとっての観察は記憶力の訓練でもあったのだ。凄い。ドガ氏の画集を観ていたら。「犬を抱いたメアリー・カサット」(1890年)という作品があった。ちょうど100年前のこの絵にわたしくしは釘付けになった。カサット氏の顔はわざとぼかされている。犬も少し動いているように描かれている。ちょうど動いているものを写真に収めた時のようなぼやけ方。現代のフランシス・ベーコン氏がやっているような新しさ。

☆この絵からは作者のあふれんばかりの愛情が感じられる。氏はメアリーが本当に好きだったに違いない。記憶の中の彼女を懸命に追い求めているような絵。そして彼女への想いを誰にも知られたくなかったのだろう。輪郭や表情をはっきり描かなかったのはそのためだった。わたくしにはそう思えて仕方がない。7月22日。大学の仲間8名で海に行く予定を変更してプールに行った。夏休みだ。天気が良くて真赤に日焼け。その後わが家でホームパーティ。カラオケをして。帰りに駅のホームのベンチでお弁当を食べた。何をしていても楽しい一日。三人娘が一緒だったから余計に。ハッスル。分りやすい自分。大学は夏休みだが明日からまたアルバイトだ。あまり面白い仕事ではない。大人はなんでこんなつまらない事に一生懸命になっているのだろう。やりがいのある仕事ができるようになりたい。でもそれがなんなのか。今のわたくしには見えない。30年後のわたくしは迷っていませんように。

☆7月26日。カール・グスタフ・ユング氏の誕生日。日本ではユング氏の理論は広く受け入れられているように思う。コンプレックスやシンクロニシティという言葉は周囲の誰もが使っている。わたくしはフロイト氏との関係をおさえておきたいと思い図書館でポール・ローゼン氏の書いた『フロイトと後継者たち〈上〉』(誠信書房)を借りた。引用する。《ユダヤ人として、フロイトはユダヤ人でないユングの助力の必要を痛切に感じていた。ウィーンの精神分析グループはほとんど全員ユダヤ人から成っており、フロイトは、精神分析をユダヤの一宗派以上のものにしたかった。フロイトの言葉を借りれば、いったんユングは「正式に……長男として……養子縁組され」、彼の「相続人、皇太子」に叙せられた》(347頁)。この本の第六章はフロイト氏とユング氏の複雑な関係を解き明かすため費やされている。二人は最初の出会いの時に13時間しゃべり続けたという。

☆《偉大な知的運動を創始するという初期の夢を実現しようとしているかぎり、フロイトは、非ユダヤ人たちを信奉者に獲得するまでは成功の希望をもつことができなかった。キリスト教の道徳基準を打倒し、克服しようとするユダヤ人として、フロイトはウィーンのユダヤ人世界の狭い境界から抜け出さねばならなかった》(348頁)。二人は急速に接近し訣別する。見解の分かれ目はリビドの解釈にある。《エディプス・コンプレックスに関して額面通りに解するフロイトの研究は、人間の心理のより微妙な面をおろそかにしているとユングは考えた。たとえば、母親に対する幼い男の子の性的結びつきについて語ったからと言って、母親に対する息子の正当な依存性を認めないですむわけではない。ユングの著作では「母親は近親相姦願望の対象としてではなく、保護し、養育する人物として見られる」。ユングはフロイト自身の、まだ解釈されていない母親への依存関係を指摘することもできたであろう》(391頁)。

☆フロイト氏は無意識の中にあるものが制御されなくてはならない危険なものであると考えているのに対してユング氏はあぶないのはそれらを制御できると思い込んでいる意識の方だと考えている。リビドに善性と悪性があるかどうかは分らないが。ユング氏はリビドに危険性よりも可能性を見ているのであろう。精神分析学の父として振舞う立場にあったフロイト氏は自らの理論の象徴であるエディプス(父親を殺してしまう息子)に脅かされていた。父とは何かを考えるもっとも最適な材料がフロイト氏とその後継者たちとの関係の中に見出せるというのは皮肉と云えばあまりに皮肉な話である。《フロイトにとっては、宗教の積極的機能を強調することは、どのように強調するにせよ、嫌悪すべきであり、フロイトが宗教は集団神経症を反映しているという結論に達したとすれば、ユングは逆の極端に走って、神経症は当人の位置づけの喪失であると論じた》(384頁)。二人の宗教観の相違についても掘り下げたい。

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