見出し画像

哲学対話 中本速 × 古賀学故

哲学対話 
第一期 2019年11月1日から12月19日

速)
言語の限界と世界の限界が一致するというのも怪しいと思っている。怪しいとは曖昧な言い方だ。「世界の方が広い」と思っている。

学)
その場合の「世界」という語で速くんが何を意味しているか。やはり言語を使うしかないのか。言語はしつこく付きまとってくるからやっかい。言語に対抗しうる態度としては沈黙が残されているが。「世界の方が広い」というのもやはり言語だから。手強いよ。

速)
言葉を知らない祖先の猿が、雨に空を見上げるとき、その「雨」は今語る私にとっては単語と関係していても、猿にとっては言葉のない雨です。これは語りうるし、猿としての側面を私達人間も持つ。語ってもよい、言語に外はある、というのが私の考えです。

学)
赤ん坊にとって世界とは何か? 言葉を獲得する前の。それと同じ。でしょうか。

速)
それはちょっと微妙でして、人間の赤ん坊は「言語の学習過程」のため、「日本語にない何か」の話か、「個体がまだ日本語でなんというか知らない何か」の話かが曖昧です。そこで、日本語を覚えない猿の例を出しました。

学)
なるほど。ではいっそう犬か猫を例にするのはどうでしょ。

速)
猫はかわいいので、哲学をやめて愛でてしまいそうです(笑)

学)
良い機会だからこのディベート1年くらい続けてみましょか。断続的にゆるりゆるりと。速くんの立場が〈実在は言葉に先立つ〉派だとすれば私の立場は〈わたくしの言語の限界は、わたくしの世界の限界を意味する〉と語ったヴィトゲンシュタインの立場を踏襲する。

速)
いま、古賀さんの詩集の前半、時間の話を読んでいて、こういう話をするのも楽しいなあと思っています。学生時代は『哲学探究』を楽しみましたが、いま、読み返したりする時間は取れません。そこで、私はそのウィトゲンシュタインの言葉を、古賀さんの言葉のように聞いて、うなずいたり首を振ったりしてみようと思います。
さて、「実在は言葉に先立つ」というと、実在というものの「強さ」を強調して見えます。しかし私が言いたいのは、むしろ言語の力の及ぶ範囲が狭いということです。そこで、「言葉は世界より狭い」こう言い換えたいと思います。古賀さん、どうでしょう。

学)
そうですね。その言い換えはとても良い。日常生活にあって言葉が必要な場面は案外少なくて。人と関わらなければ一日沈黙という日があるかも知れない。そしていざ発語しなければならないような状況に出くわしても。「あ! ちがうちがう」とか「こらっ!」とか。そんなんで終わってしまう場合も。言葉が掬い上げられる範囲の問題ですね。
本格的な論戦に入る前に。少し長めのリップサービスを。私は中本速詩集『照らす』を持っている。そしてその詩集の中の作品について好き嫌いを語り合った『弁明』という冊子も持っている。『弁明』の84頁でhumsiくんが《なんとなく「言葉の力」を信じていない人だな》と印象を語っていて。鋭い指摘だと思う。

私が好きな速くんの作品は「プレイヤー」。表面に現われた言葉はユニークで可笑しくもあるのだけれど。私にはヴィトゲンシュタインが裏打ちに使われていると感じられた。そこにはコミュニケーションの不能が描かれているのだが人生を愛したい気分もあって。言葉との距離の取り方さえ表われている。だから速くんは言葉の力を信じていないのではなく言葉では意を尽くせないという前提に立っていると思われるのだ。
ところで。私はヴィトゲンシュタインと表記して速くんはウィトゲンシュタインと表記している。これは実際翻訳によって二つに分れているからで。理由は「W」をドイツ語読みするか英語読みするかで分かれる。ヴィトゲンシュタインは第一次世界大戦の従軍中に書いた『論理哲学論考』をまずドイツ語で出版し次にイギリスの出版社から英独対訳で出版している。だからどちらで表記しても間違いにはならない。
彼はウィーンで生まれたオーストリア人。私は今回のディベートでは『哲学探究』のヴィトゲンシュタインではなく『論理哲学論考』のヴィトゲンシュタインの立場で論戦(ゲーム)に挑みたいと思っている。

速)
古賀さん、ありがとうございます。ところで、ツイッターでは相手の顔が見えなくて、一旦発言を相手に預けているのか、そのあともその人の言葉が続くのかわからなくなりがちです。そこで、私から書くときは、古賀さんに預けるタイミングで、たとえば「古賀さんどうぞ」みたいなことを書くつもりです。
まずは、今回の議論の何事かでもいいし、私が上で書いた「言葉の範囲」の話でもかまいません。古賀さんの考えを、教えていただけますか。私、すぐ熱中して詩の時間を取らなくなるから、ゆっくり、やりましょう。古賀さん、どうぞ。

学)
ありがとう。速くん。こうして少しずつルールが作られていくプロセスもまた実に面白いですね。「言語ゲーム」というヴィトゲンシュタインの論点を先取りしているかのようです。しかしその話は『論理哲学論考』(以下『論哲』)の立場ではなく『哲学探究』(以下『探究』)の立場になりますから後回し。では提案。自分の見解が一旦終わって相手に意見を求める時の記号を「W」にしたいと思います。文末に「W」がつくまでは話を続けるつもりであるという事にしましょう。
「言葉の範囲」について語ります。速くんは「世界>言葉」であると考えている。それに対して私は「世界=言葉」であると考えます。お猿さんが夕日を見ても「寂しい」と感じることはおそらくないでしょう。
何かの事情で文字を習わないまま大人になったお婆さんが夜間中学に通って字が書けるようになった。ある日。夕日を観てしみじみ思ったそうです。ああなんて夕日は美しいのだろう。今までどうして気が付かなかったのか。と。言葉を持つ事は世界を現わすための必要条件になっているという事です。
『論哲』のエピグラムに「モットー*** そして、ひとの知っていること、たんなるざわめきや喧噪として聞いたのではないこと、それらはすべて三つの言葉でいい表わされる」というキュルンベルガーの言葉が付いている。そして『論哲』は実際に六つの文だけで世界を説明した本です。ちなみに引用は藤本隆志/坂井秀寿訳の『論哲』(法政大学出版局)を使います。
《一 世界は、成立していることがらの全体である。》
《二 与えられたことがら、すなわち事実とは、いくつかの事態の成立にほかならぬ。》
《三 事実の論理的映像が思考である。》
《四 思考とは意味をもつ命題のことである。》
《五 命題は、要素命題の真理函数である。(要素命題は、それ自体の真理函数である。)》
《六 真理函数の一般的形式。〔ここに記された記号は『論哲』本文参照の事〕 これは命題の一般形式である。》
おいおい。がっかりさせねえでおくんなまし。と思われたかも知れません。私もこれを理解しているわけではなく。ただ面白いと思っているのです。およそ哲学は実に大きなものを語るものです。「世界とは何か?」「存在とは?」「無はあるのか?」。そして中でももっとも重要な問いは「私は誰なのか?」。若き哲学者が戦場でこんな事を手帳に書き留めていた。そんな光景を想像するだけでぞくぞくしませんか。
一から六までの流れは。「世界」から「事実」「事実」から「事態」「事態」から「思考」「思考」から「命題」「命題」から「真理函数」そして「命題の一般形式」へ。この流れをすべてはしょって我流で書き改めるとするなら。「世界=文」が浮き上がってくるような気がします。ヴィトゲンシュタインは『論哲』の終わりの方で《哲学の正しい方法とは本来、次のごときものであろう。語られうるもの以外なにも語らぬこと。》と書いている。以上をたたき台として提示して。速くんが暇な時にでも返事を頂ければと思います。W

速)
ウィトゲンシュタインに詳しい日本の哲学者の本を読んだときにも思ったのですが、私は動物と人間の違いを「哲学的に検討すること」は、危ういと思います。その危うさは、「違いの種類」を詳しく検討することで見えてきます。やってみます。
いくつかの問い方があります。
1)    猿が「自分は寂しい」と思う。
2)    猿が猿語で「自分は寂しい」と思う。
3)    猿は寂しさに近い感情を持つ。
4)    猿は、寂しさはないが、感情を持ち、それは日本語で説明できる。
5)    猿はなんらかの感情を持つが人間はそれを言語化不可能だ。
6)    猿には感情がない。
私は、1)から6)のうち、たとえば1)などは「現に猿が日本語を話していない」という事実さえ認めれば、哲学の話題のように思うのです。現に一言も日本語を話さない個体が、日本語で何かを思っているとみなしうるか。これは観念的な話のように思え、哲学者に聞くと良いと思います。
けれど、3)や4)の真偽は、哲学者に聞くだけではわからず、動物行動学者など、実際に猿を調べている人の知見に左右される問題ではないでしょうか。
現実的な推測をするなら、猿が日本語で「自分は寂しい」と思うとは考えられず、また一方猿に一切の感情がないというのも信じがたいです。だから、この話題をウィトゲンシュタインに聞いても正しい答えが出ない可能性、大いにあると思います。
猿には視覚などの感覚があり、寂しさはわかりませんが恐怖などの反応はあるでしょう。猿には猿の世界がある。そして、猿の親戚である人間が、言語を得た途端猿の世界をすべて失うはずがない。よって、言語は人間の世界より狭い、と考えます。

学)
やっぱり猿を例に使うのはやめにしませんか。このままだとこの討論のタイトルが「ウィトゲンシュタインと猿」になりそう(笑)。でも速くんは猿が好きそうだから少しだけ付き合うよ。映画好きの速くんに話題を合わせて。
『猿の惑星』。そこに登場する猿たちは人間と同じようにしゃべる。しゃべらないとたぶん映画にならない。『2001年宇宙の旅』。リヒャルト・シュトラウス作曲の「ツァラトゥストラ」がBGMで使われている。猿人が人類になる瞬間を描いている。あの道具を手にした猿人は言葉を手にした人間を象徴しています。ずいぶん昔のソニーのCM。猿がヘッドフォンをして音楽に耳を澄ましている。そんなのが印象に残っています。
チンパンジーに言葉を覚えさせる研究があったり。絵を描く猿がいたり。猿学はどんどん発展している。そういう知識があるせいか。余計な事を考えはじめてしまう自分がいます。速くんの議論にはいくつかの需要なテーマが隠れていると読めました。まず進化論の問題。それから独我論と他我論。そしてコミュニケーション論と日本語論。
これらを個別に論じていくとそれこそ膨大な時間を必要とするし。140字の世界でお前ら何しとるんじゃ。と云われてしまうでしょうから。私はやっぱり『論哲』しばりの中で語り続ける事にします。
速くんが提示した例の〈猿が「自分は寂しい」と思う〉について。速くんは言語を日本語であると規定しているので私もそのまま日本語限定で話を進めます。もし猿に日本語を習得させることができたとしたら。「寂しい」と感じる事はあるに違いない。しかし実際にそれはできない。そこから1)が哲学的議論(観念的な話)の範疇にあるのではないかと速くんは考えているわけですね。
しかしヴィトゲンシュタインはその種の議論を哲学から外さなくてはならないと考えています。彼の定義によれば《一 世界は、成立していることがらの全体である》から。〈猿が日本語で寂しいと思う〉は「世界」のなかに入らない。《四 思考とは意味をもつ命題のことである》から。〈猿は日本語で寂しいと思う〉は思考にもならない。
もしもこれをヴィトゲンシュタインの定義する「世界」に組み入れたいなら。〈「猿が日本語で寂しいと思う」と私は考える〉という命題にすればよい。これなら命題には意味があり。そして成立していることがらの一つとなるだろう。繰返しになりますがヴィトゲンシュタインは次のように語る。《六・五三 哲学の正しい方法とは本来、次のごときものであろう。語られうるもの以外なにも語らぬこと。ゆえに、自然科学の命題以外なにも語らぬこと。(以下省略)》。ですから速くんが提示した3)から6)までの自然科学的な問題の方がかえってヴィトゲンシュタインにとっては哲学の範疇に入るわけです。
とここまで『論哲』の立場で書いてきましたが。私としては「猿が寂しいと思うかどうか」よりも「夕日を見る」ことの方に力点を置いて考えて欲しいと思っています。「夕日」という言葉がなかったら。「夜明け」という言葉がなかったら。「朝」という言葉がなかったら。私たちの世界はどう見えるでしょう? 言葉を習得する前の個体に果たして世界があるかどうか。
速くんはあると主張しています。それは私たちが「言葉を習得する前の個体」ではないから。そう考えてしまうのではないでしょうか。言葉を知らない猿人にとっての世界を猿人の立場から見ることができないのであれば。それは《成立していることがら》の中には入らないのです。W

速)
猿の話、古賀さんの興味からは少し遠いようです。夕日の話題に移りたいと思いますが、私が重視する猿の話題について、私の視点から少し付け加えてからにします。
1)    猿が「自分は寂しい」と思う。
これについてのウィトゲンシュタインと古賀さん、それから私の考えは一致していると思ってます。
語りえぬことについては沈黙しなければならない、というウィトゲンシュタインの言葉。「語りえぬこと」は哲学ではない。これを古賀さんは言っています。そして私は「語りえぬことについては沈黙しなければならない」は哲学だ、と言っています。
線の向こうは哲学ではない、と言うのが古賀さん。その線を引く行為を哲学だと呼んだ私。
この二人は矛盾していません。
猿についてはこのぐらいにするとして、長くじっくりやるつもりが、私の語りは少し多すぎる、早口すぎる気もします。
夕陽の話題も一気に書くと対話編らしくないようにも思うので、一度古賀さんに返します。W

学)
すっきりまとめてくれたので助かります。そして『論哲』の土俵に乗って語ってくれた事もとてもうれしい。速くんの立場もこれで明らかになったように感じます。ヴィトゲンシュタイン(以下W氏と略します)は《四・一一四 哲学は思考可能なものの限界をさだめ、それにともない、思考不可能なものの限界をさだめねばならぬ。哲学は、思考可能なものを通じて、思考不可能なものを内側から境界づけねばならぬ。》と書いています。「線を引く行為」が哲学であるとした速くんの理解は正しい。問題は《七 語りえぬものについては、沈黙しなければならない。》という結論の文です。
私は『論哲』におけるこの〈七〉が大きな問題を抱えていると考えています。先に私は『論哲』が「六つの文だけで世界を説明した本」と云ったのもそのためです。〈七〉の一文をもって哲学を終わらせたと思ったW氏はその後しばらく自らに学問を禁じた。《沈黙》を実践した。莫大な親の遺産が転がり込んだがほとんど人にあげてしまった。それで小学校の教員になり各地を転々とした。親たちから変人扱いされて永く同じ場所に居られなかったからだ。「語りえぬもの」を決めるのは一体誰でしょう。「沈黙しなければならない」義務を負っているのは誰でしょう。
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という命題それ自体が「語りえぬもの」の中に入ってしまっているのではないか。もしそうだとしたら。〈七〉は例えば《七           》と記述されるべきだったのではないか。ここで私が使った《  》という記述方法は「何も語れない」という意味。あるいは「無」。あるいは「空」。しかしそうとも限らない。
別の例を出します。誰もが一度はやったことのある思考実験です。宇宙に果てがあるか。宇宙は膨張していると科学は教えている。ではその宇宙という名の風船の周りはどうなっているのでしょう。そこにも何か空間があるのか。もしないとするなら。なぜ風船は膨らむことができるのか。膨らむ風船が宇宙だとするなら。その周囲の超宇宙には果てがあるのかないのか。
もう一つ。世界全体を観るということは可能か。たとえ全部観てそれを記述できたとして。それを観た人は果たしてその世界の中にいるだろうか。世界全体を観ているその人はその世界の外にいるのではないか。すると世界全体だと思っていたその世界は実は本人を欠いた不完全な世界であることになるだろう。
このような永遠に繰り返される不毛な議論を哲学の仕事であると私は思い込んでいた。W氏は『論哲』を書いて線を引き。人が迷子にならないようにしてくれた。にもかかわらず。限界をさだめる思考それ自体には限界がない。『論哲』における〈七〉は時限付きの自爆装置のように私には思える。そしてそれで良いとW氏は考えていたのかも知れない。
実はこの話は切り札にとっておこうと思っていたのですが。速くんに先取りされてしまったので。出しちゃいました。この問題は相当ややこしい。ので。また別の機会に。では。言葉を知らずに世界を感じる場合と言葉を知ってから世界を感じる場合とではどれくらい違いがあるのか。「夕日の話題」に移って。速くんの考えを聞かせて下さい。W

速)
古賀さん、ありがとうございます。猿の話題をこれ以上持ち出さないために、私がしている「世界が言語に先立つ」というのがかなり簡単な主張であることを言っておきたいと思います。
猿は三平方の定理を理解しません。三平方の定理を理解するには、1.2.3.4といった数の記号を知った上でそれを高度に操作しなければなりません。一方、猿には「恐怖」があります。野生において、恐怖心がまったくなければ、生き残ることはできないでしょう。「夕日が美しい」というのは、その間にあるような事柄で、記号の操作ではないけれども、生存に必須とも言い切れないものです。
ですから「言語を学んだ結果夕日が美しく感じられる」という話が本当の場合でも、いや、「言語を学ぶことでしか夕日の美しさは感じられない」という強烈な結論の場合ですら、「世界が言語に先立つ」という説を崩すことはできないと思っています。まず最初に猿の話題に持っていったのは、そういうわけなのです。(猿という単語を持ち出すのはここまで。)
字を学んだ結果、夕日が美しく思えたという話は、本当らしく思います。それが「夕日」「美しい」という字でなくとも、文字の学習によって夕日は美しく見えるかもしれません。
景色の美しさという、生存に直結しなさそうな感性は、人間的です。そしてまた、言語も人間的です。人間的なもの同士が、深いところで関係しているというのはありそうな話です。
一方で、次のような別のお話をしてみましょう。ある匂いの話です。雨が降った跡、道から独特の匂いが立ち上ることがあります。古賀さんも「あるなあ」と思うのではないでしょうか。何の匂いなのかはっきりとはわかりません。植物でしょうか。土でしょうか。発酵や腐敗と関係があるのでしょうか。私は詳しく知りません。
この匂いを初めて感じたときも、雨の後だったはずです。そのとき、私は雨と結び付けなかったかもしれません。ただ、匂うな、と思っただけかも。しかし、やがて何度か経験する内に、その匂いが雨の後に起こるものだと理解します。この匂い前にもかいだな。あのときも雨の後だった気がするな。ところで、この匂い、英語では名前がついています。「ペトリコール」というのです。
しかし、検索した限りでは英語のこの名前、1964年の論文で初めて使用されたそうで、歴史は短いようです。このツイートを読みながら「ペトリコール」という単語を知った人は多いでしょう。知られた言葉ではないと思います。なにしろ、私が知ったのは早押しクイズです。知られていてはクイズになりません。
私はまず、ペトリコールという言葉を使わずに長々とツイートで説明しました。それを「ペトリコール」と呼ぶことを知る前に、皆さんは雨のあとに感じていた匂いを、そこから広がる快感や不快感を思い起こすことができたのではないでしょうか。
字を学んで夕日が美しいとわかる。これは、言語の学習が世界を広げた例です。言語と同時に世界が広がることがある。一方で、我々が感じ取っていながら長い間名前のつかなかった言葉がある。ペトリコールという英語を知る前に、私はその匂いを感じ取り、そしてそれについて考えもしたのです。言語が後から世界に追いつく例です。
言語と世界は、同時のこともありますが、世界が先立つ、こともあるのです。古賀さんは、夕日とペトリコールについてどう思いますか。W

学)
「夕日」についての速くんの意見。とても興味深く読みました。動物が本能で感じる世界と人間が理性で捉える世界のちょうど中間に「夕日の美しさ」を持ってくるあたりがとても独創的な考えに思えました(速くんに云わせるとそれは常識的なのでしょうけれど)。そして匂いの話は実に説得力があります。「ペトリコール」という新しい言葉を知る事ができてとても得した気分です。私もあの匂いが好きです。特に高原の朝の空気に混じるあの匂いは生き物を蘇生させる力があると感じます。
科学的に云えば。マイナスイオンがたっぷりと含まれた新鮮な空気。となるでしょうか。名もなき現象に名前をつけるという行為はとても楽しい。そしてそれが普遍性を獲得して多くの人に使用されると辞書にきちんと載るような言葉になる。文学はそれをやっているのだと思います。誰もが使っている言葉を駆使してまだだれも名付けることができていないような事象に詩的な表現を与える行為。それが単語であるか述語であるか文であるか詩句であるかは作者の好みの問題であるわけですが。
さて。私はここからどのような反論ができるでしょう。命名という行為を例として「言語に外はある」ことを速くんは証明してくれました。そして「言葉は世界より狭い」という主張を貫いています。しかし。私がここで降参したら。せっかく時間制限のないディベートを始めた甲斐がありません。W氏の論理を援用して反論を試みたいところですが。
ここは敢えて大きく迂回することにします。今から28年前。1991年11月29日に発行された川本皓嗣『日本詩歌の伝統─七と五の詩学─』(岩波書店)という本があります。私はこれをたまたま古書店で見つけ去年の暮れに読んでとても感銘を受けました。川本氏によると日本詩歌の伝統にあっては「秋の夕暮」=「寂しさ」というルールを踏み外すことは許されないとのこと。詳細は論文を読んで頂ければ納得できると思います。

王朝末期から近世にかけて数え切れないほどの「秋の夕暮」を題材にとった歌や俳句があり。それらがすべて「寂しさ」の表現として作られている。中にはわざと明るく歌おうとするものもあるのですがそれも「秋の夕暮」=「寂しさ」という定式が踏まえられているから成り立つのだという事らしい。
私が驚いたのは。日本語ユーザーとして今まで誰にも教えられていないのに。「秋の夕暮」という言葉を聞いてやっぱり「寂しい」と感じてしまう自分がいることでした。これを無意識と呼ぶのかどうかは別として。言語が持つ文化的な地層のようなものを想像するしかないように思います。短歌の世界にも足を踏み入れている速くんならこの話題で何か思うところがあるのではないでしょうか。一度そちらにボールを投げます。W

速)
古賀さん、こんばんは。
しばらく考えていました。
三日前いただいたコメントの中で重要なのは、言語が持つ文化的な地層という部分だと思っています。
ただ、少しまだ古賀さんの意図を計りかねているところがありますので、今回は短く書きます。
秋の夕暮れは寂しい、と決まっている。ところが、古賀さんはその「決まり方」を知ったとき、強制されたというより気付かされたように感じた。ここがたぶん大事なことです。
ある言語ユーザーになることが、その言語の持つ文化的な土壌でありつつ、まだ知らない部分を受け継ぐことになっているのではないか?
たとえば、比喩的に、日本語が持つ特有の全体構造みたいなものがあるとします。そこに、個人がまだ言語化していなかった新要素(秋の夕暮れ)を入れるとき、入れる場所はある一定の領域(寂しい)に収まりやすい、みたいなことはありそうです。
そこまで考えたのですが、このあと自分で考えを進められなくなりました。別の国の人が「うちの国では、秋の夕暮れは『優しい』だな」と言ったとします。このとき、「優しい」と「寂しい」に分かれるのは、言語が違うからなのでしょうか。自然が違うからなのでしょうか。古賀さん、どう思われますか。W

学)
言語を含めた文化の違いと云ってしまえばそれまでですが。秋の夕暮れは寂しいとしなければならない日本の事情は特殊なのだと思います。少し長くなりますが。私の意図が見えるところまで書いてみます。
川本氏の「秋の夕暮」論によると。欧米では必ずしも「秋の夕暮」=「寂しさ」ではないとのこと。但しフランスの象徴詩にはその例がいくつかあって。確かにマラルメやボードレールやヴェルレーヌなんかの翻訳を読むと日本人と同じように秋のもの悲しさみたいなものを書いた詩があり。そんなところにも日本とフランスの文化的な影響関係があるのだなあと。
速くんが云うように言語には個別の全体構造があると思われます。私はそれを「意味の網」と呼んでおきます。外来語がそこに加わる時。元の意味を離れて新しい役割で網にからめとられていく。古くは中国や韓国から。ポルトガルやオランダそして欧米諸国に至るまで。どんどん言葉が入って来て日本語の中に溶け込んで。独自の意味をもって活躍していく。それがヤマトコトバの上に何層も重なっている。「神」や「仏」ですら外来のもの。「カ」と「ム」が合成して「カム」。それがなまり「カミ」となった。「フト」と「ケ」の合成で「フトケ」。それがなまり「ホトケ」ができた。なんてことを国語学者の大野晋氏が書いています。もう少し脱線させて下さい。色を譬えに使いましょう。
私たちの言語が色を表わすものだけであったとします。赤。青。黄。この3色だけで思考する国を想像して下さい。この国では桃色や茶色のものは「赤」と呼び。紫色や緑色のものは「青」と呼び。肌色やオレンジ色は「黄」と呼ぶことになるでしょう。そこに外国から「黒」が入って来た。その場合。「黒」は経験したことのない色。どう解釈したらよいか戸惑う。学者は「それは赤でも青でも黄でもない色だ」と云う。人々はさしあたって「黒」をそのように受け止める。ところが次に「白」が入って来る。「白」も定義しようとすれば「赤でも青でも黄でもない色」である。それでは「黒」と同じになってしまう。そこで学者は頭をひねり「白」は「赤でも青でも黄でもある色」と定義する。つまり「黒」と「白」は対極にあることをこれで示すわけです。
実際に「黒」は3色を吸収してしまうけれど「白」は3色を消さない。こうしてこの国では赤と青と黄に黒と白を加え5色で思考できるようになる。さて。3色だけで思考する世界と5色になった時に思考する世界が果たして変化したのかどうか。結論を云えば世界は何も変わらない。この後この国に桃色や紫色ができても世界が変ることはないでしょう。
言語の全体構造がこの国では「色の分類」という単純な構造になっている。5色が12色になりさらに24色になったとしても「意味の網」それ自体は変化しないのです。言語の習得とはこの「意味の網」を手に入れることだと思いませんか。ただ実際の「意味の網」は説明しきれないほど複雑な構造を持っている筈です。そこに「秋の夕暮」や季語の数々があるのが日本語です。蝉を真冬に鳴かせることはできない。しかし真冬にだって蝉は生きています。土の中にじっとしているだけ。詩人としてはいつか雪の中の蝉を詠ってみたいものです。W

速)
古賀さん、こんにちは。色の例、興味深く読みました。質問ばかりになってしまいますが、いくつか教えて下さい。
・「思考する世界」「世界は何も変わらない」という言葉が出てきますが、この「世界」は「意味の網」全体、ということなのでしょうか。
・「クロ」という新しい言葉が入ると、意味の網全体は「大きく」はならないが、「網目が細かく」はなる気がします。これは変化のうちに入らないでしょうか。
・言葉が変化したときに意味の網が変わるか変わらないか、といえば、私は変わる面もあるが変わらない面もあると思います。古賀さんは変わらない面をここでは強調されています。言語が刷新されても世界がもとのままである、という言い方は、「世界が言葉に先立つ」と相性が良くて、その逆とは相性が悪い気がします。このあたり、古賀さんの側で元の話題とどうつながっているのでしょうか。W

学)
ご質問にお応えします。「意味の網」と「世界」はぴたりと重なることはありません。ご指摘の通り。私の譬えでは世界が言葉に先立つことを証拠立てているように感じられるでしょう。書きながら考えたアイデアなのでとても不完全だと思います。
そこで少し補足してみます。例えば「身体」。部位の名前が「頭」と「胴体」と「腕」と「足」だけしか知らなかった人に「顎」と「手首」と「腰」と「脛」という言葉を教えたとします。語彙は増えましたが身体がそれで変化することはおそらくないでしょう。三色国は世界を三色でみる人々でしたが黒と白を知らなかったわけではありません。おそらく白を黄色に黒を青に分類していたのだと考えられる。
それがある日から五色に分節できるようになっただけなのです。世界の方に変化がないというのはそういう意味です。この譬えで私が意図したかったのは。命名と世界の分節との関係を再考することでした。私がペトリコールという語彙を知らなかった時の世界と知ってからの世界に何か変化があったかどうか。
「意味の網」に新しい言葉が導入されると網目が細くなったり重くなったりすることはあると思います。この場合も私は世界が変化するとは考えませんでした。変化とは網自体が取り替えられることだと。網の取り替えはすなわち異なる言語を話す事を意味します。
速くんの気づきは。「意味の網」を言語の全体構造としている私たちが別の「意味の網」に取り替えできるというならば。それはつまり世界の方が大きいことの証拠になるのではないか。ということではないでしょうか。W

速)
古賀さんこんばんは。何度も読み返しましたがよくわかりませんでした。
少しずれたコメントになるかもしれません。
私は、世界と言語の限界が一致するという論を建てるには、二つの方向性があると思います。
1.世界と言語はそれぞれ存在するが、常にその領域は一致する。
2.世界と言語は、別々には存在し得ない。世界とは言語のことである。
この二つは両方誤っている、というのが私の意見です。
では、古賀さんの意見はどうなのか、というのがまだ私にはよく見えていない。
もうひとつわからないのは、言語を持つとき、どの範囲で「世界が同じである」とみなすかです。
古賀さんの解釈だと、言語というのは、たとえば「日本語」「フランス語」のように国単位程度に分かれているもので、それぞれに「意味の網」を持っています
しかし、これは次の二つのあいだのようにも思えます。
1.言語はすべて同じひとつの『言語』であり、全人類は同じ『意味の網』を共有している。
2.言語とはすべて個人に属した別々のものであり、全人類はそれぞればらばらの『意味の網』を持っている。
古賀さんの解釈だと、日本語話者とフランス語話者が別々の意味の網を持っていて取替不能なのに、日本語の話者同士はまったく同じ意味の網を持っています。この感覚が私にはピンと来ないのです。W

学)
二人の考えの溝はなかなか埋まりませんね。第三者はここまでのやりとりをどう思っているのでしょう? きっと平行線を辿っていると見えるのでは。でもそれでいいのだと思います。私は私の考えを速くんに合わせて説得し速くんは速くんの考えを私に合わせて提示してくれる。溝に投げ入れられた落葉や砂は底の方へ落ちて行き暗やみの中に消えてゆく。まだまだ底は見えない。
何度でもふりだしに戻って考えましょう。とことん考え抜く。哲学ですもの。なんとなくですが。速くんには見えて私には見えない何かがあるような気がします。それを掴むまで討論を続けたく存じます。
「意味の網」についてあいまいな部分があるようなので修正を。日本語の規則を例に。「あれ」「これ」「それ」の使い分け。私はこれを学校で習った覚えがありません。なのに。友人に向って「ねえあのボールとって」と云うと友人がボールを私にとってくれます。しかし「これじゃないよ」と云うと友人は「どれ? これ?」。「うん。それそれ」と私。こんなことを誰もが平気で使い分けています。「しかし」「そして」「にもかかわらず」などの接続詞もそうです。その意味を説明せよと云われると答えられないのにちゃんと運用できます。「1匹2匹3匹の法則」も習っていません。試しに1〜30までの数に「匹」をつけて皆で読み合うと分かるはずですが6や8には「ぴき」が13には「びき」がちゃんと付いて来る。
こういう暗黙のルールを含め言語の全体構造は集団のなかにしか姿を見せません。「意味の網」をもっているということは話者にとってとても有難いことでこれは公共財です。ですから私的な「意味の網」というのは存在しません。私は便宜上国別でこの網の取り替えについて論じましたがそれは宇宙語と地球語でも良いのです。関東関西の地方別にしても良いのです。分かりやすくするために図解します。図(1)を参照して下さい。

この図では「意味の網」は世界の中にあります。つまり諸言語の全体構造です。私の理解では。速くんは網に入らない部分を指して世界の方が広いと云っているのではないでしょうか。ところが。私たちは図(1)の世界をもう観ることはできない立場にある。言語を使う動物になってしまった。選択としてはどの「意味の網」を使って世界を観るか。それだけであって。その外部には出られないのではないか。これが私の問題意識であると云える気がします。
全人類の共通の「意味の網」はインターネットによって実現されつつあるように見えます。しかしそれは見かけだけのお話。宮沢賢治が思い描いた世界共通語やエスペラント語などの普及もヒントになる。また数学が多くの哲学者にとって魅力的だったのはことのほか普遍性が感じられたからだと思います。W氏にとってはそれが論理でした。
私の立場からすると。《世界と言語はそれぞれ存在するが、常にその領域は一致する》ようにしか世界を観ることができない。だから《世界と言語は、別々には存在し得ない。世界とは言語のことである》と云わざるを得ない。と言い張る事になる。〈わたくしの言語の限界は、わたくしの世界の限界を意味する〉というW氏の命題について。もう少し思索を深めたいと思いますがこのあたりで速くんの言語観をもう少し聴かせてくれませんか。W

(速くんの図解)

速)
《私の理解では。速くんは網に入らない部分を指して世界の方が広いと云っているのではないでしょうか》
微妙なところです。私は古賀さんとの「さっきの対話」ではそういう傾向があるかもしれません。
というのは、言語が「日本語」「フランス語」のように分けられると、古賀さんの図解のように、世界が地(じ)になっている感じがするからです。
ただ、私自身のもともとの考えはそうではありません。私が考えているのは、人間が言語を獲得した途端に叙述的に世界をとらえるのみの状態になったりはしない、ということです。
しかしこの話は、少し複雑です。なぜならば、私達はたとえば「世界」と言ったり、「言いようもない感覚」と言ったりすることで、空間のすべてや、まだ名前のついていないものまで言語化しているように思えるからです。
ここで丁寧に考える必要が出てきます。私が「セカイ」という名で世界を呼ぶとき、「アメ」という名で雨を呼ぶとき、すでにそれは意味の網のうちの世界であり、意味の網のうちの雨です。それでは「セカイノソト」と言ったら何になるか?
「セカイノソト」。それが思考可能であろうとなかろうと、「セカイノソト」は、意味の網のなかにあります。つまり、言語にはある意味限界はないとも言えます。「セカイノソト」でさえ包み込むならば、意味の網は無限に広がる世界そのものなのではないか?
これが私の考える「言語の限界と世界の限界は一致する」の一バージョンです。私は、自分でいま説明したこの話に、納得していません。
わたしが初めて雪を見て、「ユキ」という言葉を教えてもらう場面を考えてみます。二種類の場合があります。
・ユキという言葉は私の言語にあるが、単に私が知らない場合。
・ユキという言葉自体がない南国の生まれで、新しい外来語として「ユキ」を知る場合。
ただ、いずれにしても、教えてもらう前の私あるいは私の母語にとって、ユキという言葉は「まだないが可能な単語」でしかない。ところが、私が雪を初めて見るとき、私の世界はすでに更新されている。
「言語の可能性の限界」は世界全体を保持することができます。しかし、「言語の現時点での限界」は世界を保持できない。これが私の考えです。ここでいう言語の可能性とは、「雨が降るか降らないかの可能性」ではなく、「見たこともないものに言ったことのない単語を与える可能性」です。
これが私の一つ目の言語観です。自分のなかにあと二種類、合計三種類ありそうな気がしていますが、すでに十分長いので、古賀さんに一度返してみましょう。

学)
素晴らしい。溝にどっさり土を投げ入れてくれた感が。私にそこまで説明してくれた人はこれまでに何人もいません。ひょっとするとW氏の独我論に新しい光をあてるきっかけになるかも知れません。
《「セカイノソト」でさえ包み込むならば、意味の網は無限に広がる世界そのものなのではないか?》と書いた速くんは私が導き入れようとしている結論を先取りしています。意味の網AとBによる図解(これを速モデルと名付ける)も実に示唆的です。我々の思考法の相違が図解(1)とこの速モデルの二つで明らかになったのではないでしょうか。
興味深いのは。図解(1)の方は私が理解したところの速くんの脳内であり。反対に速モデルは速くんが理解したところの私の脳内を図示しているように見える点。これはこのディベートの結末をも予告している気がします。さあ。速くんの言語観の続きをお願いします。W

速)
それでは、もう一つ、いえ、ここは一気にもう二つ、私の言語観を付け加えてみましょう。
二つ目。次のような場面を考えてみます。なんとなく物足りないような、寂しいような、言い表しにくい気持ちで歩いている私がいます。そして、私はたまたま途中にあったラーメン屋に入り、味噌ラーメンを頼みます。香りの強い味噌ラーメンが出てきます。そこで私は思います。「そうそう、これが食べたかったんだよ」。このような「思い出し言語化」において、後の時点、つまり、現在の時点から見ると、言語は世界を表現できていると言えます。「これが食べたかったんだよ」。ところが、過去の時点においてはこの言語化はできていません。それは、私個人の言語能力でできていないのではなく、その時点では「これが食べたかった」ということは実現しているのに、味噌ラーメンは頭に浮かんでいないからです。それどころか、このような「これが食べたかったんだよ」は、その店に初めて入る場合でも口にすることがあると思います。
この例は、「ユキ」の例に比べると微妙な印象を与えます。あらゆる味噌ラーメンを食べたことがない人だと「こんなの初めてだ!」と思うかもしれないからです。では、どうして私はこんな例をあげたのか。私は過去の時点において「味噌ラーメン」の概念を思い浮かべていません。そして、過去の時点で「これが食べたかった」は言語にできていません。私は現在の時点において「味噌ラーメン」を目の前にしています。そして、「これが食べたかった」を言語化できています。そして、「現時点」だけに視点を限定すると、味噌ラーメンの話題について、言語と状態は一致しています。この組み合わせを見ると、認識が明晰であると、言語化できている。ここで私は思うのです。
「認識の明晰性が、言語と状態の一致に関わるのなら、仮に『認識が明晰な現時点』に視点を限定して『すべての状態に言語が行き届いている』と主張した場合でも、それは『認識の明晰性』がもともと言語っぽいからじゃないのか? 言語っぽいものが言語の限界と一致するのは普通なのでは?」
これが、言語世界一致説に対して私が抱いている疑惑。「言語になりやすい部分を世界と呼ぶことで、世界と言語の限界一致があるように見せているのではないか」疑惑です。
三つ目。古賀さんが提示している言語観は、平叙文(○○は□□だ)とその否定形(○○は□□でない)で成り立っています。
平叙文と世界には特別な関係があります。「私は今朝パンを食べた」という平叙文は、実際に私がパンを食べたかどうかによって本当になったり嘘になったりします。
この関係は、たとえば「やあ」という呼びかけにはありません。「やあ」に本当や嘘はないのです。
もう少し複雑な場合もあります。「君はお金を払うべきだ」という話は、実際にお金を払うかどうかと関係はあります。ありますが、払うかどうかそのものでなく、その倫理的正当性との関係で「嘘」「本当」が決まります。
今述べた二つの言語活動のうち、どちらに重きをおいて言語を眺めるか。私は後者です。「やあ」「君はお金を払うべきだ」という言葉は、私になにかをうながしています。「やあ」という返事であったり、お金の支払であったり。これらは社会で上手に生きることに直結します。ミスすると大変です。
私は言語活動を、あくまで行動との「込み」の関係で捉えています。平叙文はその一部で、世界と特別な重なり方をしますが、しかしそれも私にとっては行動と「込み」です。「350円でございます」。ここで、「なるほど、実際にそうですね」と判定をしても仕方がない。350円出さなければなりません。
これが私の三つ目の言語観です。直接に今回の話題とは関係しませんが、私はこういう関心の持ち方を中学生くらいからしており、もっとも重視する観点です。世界との重なり以外の働き方をする言語活動を重視していたことが、私に「言語が世界に先立つ」を疑わせているという側面は、あるでしょう。かなり長く書いてしまいました。古賀さん、どうでしょうか。W

学)
面白いです。「認識の明晰性」と関連させて言語を眺めるという考え方はW氏の論哲の立場を指していると思います。論哲のW氏にとって言語はまさにそういうものでなくてはならない。もっと端的に。言語化できるものだけで世界を観る。であれば。言語の外は無用であるという事になるでしょう。速くんの疑念はそこから生じているわけですね。
行動と言語あるいは行為と言語の結びつきに興味があったという速くんの話にも共感しました。私の大学の卒論のテーマがまさに『言語行為と道徳』でした。私は荒川幾男氏の指導の下で一年間言葉と行為の関係を研究しました。特に権力との関連で言語行為を観ることに私の主要な関心がありました。「こら!」「駄目でしょ」「バカ」等の親の言動に内蔵される暴力性。言葉に力を与えているのは言語そのものではなくその言語を発する人間の暴力性であるという認識に立って。
この頃の私は速くんと同じ言語観を持っていた。言葉よりも先に暴力があったと考えました。その力が内在化していくプロセスを描けば言語が人間に及ぼす力や機能が解明できると思ったのです。J・L・オースティンの理論はとても参考になりました。「窓閉めて」という一言で人は三つの行為を行っているとオースティンは考えます。1)「マドシメテ」という音を出す行為。2)窓を閉めさせる指示あるいは命令という行為。3)その発言を媒介として窓を閉めさせる行為を他人にさせるという行為。このうちの3)を言語媒介行為と云いますが私はこの言語媒介行為を成り立たせているものが何であるのかに関心がありました。
見知らぬ人が突然「窓閉めて」と発語しても私は反応しないかもしれない。しかし娘が云えば。ああ寒いのかなと察して窓を閉める行為をする。「窓閉めて」という言葉自体には私にその行為を強制する力はありません。言語媒介行為をする側とされる側の間には「関係性」という第三のファクターがある。この話はまだ続きますが一旦休止。
(数日の休止後)
「言語媒介行為」の続きを書きます。オースティンの理論から私は自分の思考をさらに発展させ言語を媒介しない行為について思いを巡らせました。日本語には「問答無用」というセリフがあります。そして大臣が暗殺されたり人が切られたりします。そのような犯行に及ぶ相手に向ってできる被害者の最終的な応答が「話せば分かる」というものであったりする。赤ん坊がぎゃあぎゃあ泣くと母親は無条件でおっぱいを差し向ける。
日常の場面にはこうした「言語無媒介行為」が無数にある。私はそこに暴力の一形式が潜んでいると考えました。突然ですが幼少期の思い出を。幼馴染の大ちゃんは幼稚園生の時Aさんという女の子のことがとても気に入っていました。そしてよくスカートめくりをして困らせていました。Aさんは嫌がっている様子も見せずきゃあと云いながら笑うのです。はた目には子どもがじゃれ合っているだけに見えます。しかし私は気が気ではありません。なぜなら私もAさんの事が好きだったからです。
それで私は大ちゃんに云いました。「そういう事やっちゃだめなんだよ」。大ちゃんは私に注意されてとてもショックだったようです。兄弟のいない大ちゃんにとって私は無二の親友でした。その親友にまさか行為の禁止を申し渡されるとは考えもしなかったのでしょう。果たして大ちゃんはその日からAさんに対するスキンシップを控えるようになる。大ちゃんのスカートめくりは「言語無媒介行為」です。Aさんからの視点では一種の暴力にちがいありません。
一方私の大ちゃんに対する注意は「言語媒介行為」です。一見するととても道徳的な事を私はした事になる。しかし大ちゃんの視点から見るならばどうでしょう。幼い大ちゃんは二者択一を迫られた。親友の助言を受け容れずAさんへのちょっかいを続けるか。それともAさんをあきらめて親友との関係維持を取るか。悩んだ末。大ちゃんは一番時間を共有している私との関係を選択。私は言語を媒介して大ちゃんを支配下に収めたのです。
この私の「言語媒介行為」には暴力性はなかったのでしょうか。私は何を利用して大ちゃんとAさんを引離したのでしょう。「そういう事やっちゃだめなんだよ」というセリフが私の口からではなく他の児童の口から出ていたとしたら。話を戻します。言語の外は広大である。そこには欲望があり感情があり行為があります。名付けようのない物や出来事に満ちています。
「世界>言語」という公式は圧倒的な支持を受けている。しかし私は「言語媒介行為」の背後に暴力性を観るという視点を得たことで「言語無媒介行為」を疑う道に入りたくなったのです。名前を呼ばれたら返事をする。知人と遭遇したら挨拶をする。手伝ってもらったらお礼を述べる。お年寄りに席を譲る。税金は滞納しない。人前で裸にならない。眠っている人の側を通る時は忍び足。ホールでオーケストラの演奏を聴いている時は咳をがまんする。社会に貢献する。
私たちの行為の中には言語を媒介しないでもできてしまうものがたくさんあります。しかし猿に育てられ言葉を覚えなかったとしたら果たしてターザンのように振る舞えるでしょうか。人間は歴史を持ってしまった。文明を開いてしまった。文化を継承してしまった。遠い過去から誰かに命令されて私たちは動いているのではないか。つまり目には見えない歴史的な言語に媒介された行為をしているのではないか。大ちゃんがAさんへの欲望を断ち切ったこと。その背後にあるもの。それは言語なのか。それとも言語の外にあるものなのか。ここで速くんの意見を求めたいと思います。W

速)
道徳的指導・誘導の背景にある暴力性。それが言語的なものだと、古賀さんは考えるのですね。さまざまな社会性を持っているのが人間です。この社会性の背景に暴力がある。暴力の起源には言語媒介行為がある……。ということは、社会的な人間の起源には言語がある。古賀さんの考えをそう私はまとめました。古賀さんの「無言語媒介行為」という話は、対比として妙な気がします。何が言いたいか。古賀さんは大ちゃんの「スカートめくり」を「無言語媒介行為」と言っています。この用語そのものはおかしくない。大ちゃんは誰かに言われてスカートめくりしているわけではないから。その一方で、「ホールで咳をがまんする」という道徳的な行為も例に上がります。これも、誰かに言われなくともなんとなくホールでは咳をがまんします。整頓します。今三種類あります。
・スカートめくり(無言語媒介行為)
・言われなくとも咳をがまんする(?)
・そんなことしちゃだめなんだよ(言語媒介行為)
さて、ここで「?」になった咳の我慢がどちらなのか、古賀さんは語っていません。それはなぜか。なぜなら、誰かに言われなくとも咳を我慢するというのは「言われなくとも」なので、端的に考えれば無言語媒介行為です。しかし、その暴力性の背景に「誰かの命令があった」と考えるならば、言語媒介行為です。古賀さんはおそらく、すべての社会性の背景には「暴力」があり、さらにその背景には(いま、この場ではないかもしれないが)「言語媒介行為」があったと考えている。だから、無言語媒介行為であるように見える「咳のがまん」がどちらなのかは、語らなかった。私はそう読解しました。
しかし、私にはそれでもよくわからないのです。咳の我慢が黙っていても出来るのは、本当に最初に「言語」があったからなのでしょうか? むしろ、黙っていても咳を止めるのだから、言語ぬきでも、ある程度行為を矯正できることの証拠ではないのか。私は、さまざまな社会性の背景に「暴力」を見て取るときに、むしろそれが「非言語的」に見えます。たとえば、単純に喧嘩をすれば私はライオンに食われてしまうでしょう。ところが古賀さんはそこに「言語」を見ている。この理由をもう少し詳しく知りたく思います。W

学)
用語が不統一なので修正させて下さい。言語を媒介しないで行う行為を「言語無媒介行為」と私は名付けています。速くんは「無言語媒介行為」という言い方で同じことを言おうとしてくれましたが「無媒介」とさせて下さい。
さて。エチケットやマナーというレベルの行為を私はあえて取り上げました。法律や道徳のレベルだと言語媒介行為であることは明白なので私が言いたい事が示せないと思ったからです。速くんの理解はとても正確です。その通りに私は話を誘導したと思います。繰返しになりますが説明を重ねます。
暴力は言語無媒介です。言葉を使わないで行う行為ですから。なので暴力性に意識を向けることは「世界>言語」の論拠になる。野生では弱肉強食が当たり前で。食べられたくなければ逃げるしかないわけです。この暴力の世界に対抗する手段の一つが言語である。私も初めはそう考えていた。
しかし考えを進めていくと「言語こそが暴力なのだ」と。言語の暴力性について。私はそこに目を向ける必要性を感じて速くんを誘導しました。速くんにとって暴力はあくまでも非言語であるのかも知れません。しかし言語を獲得した人類だからこそ歴史の中に記録された暴力が可能だったのも事実です。
一見言語を媒介していない行為に見えるスカートめくりも私の観点では言語媒介行為の別バージョンです。大袈裟に言えば男性優位の社会が大ちゃんに命令した行為であると。コンサートで咳をがまんする行為もある種の階級意識が私に命令した行為です。こうしてあらゆる行為の背後に言語を診る立場。
私たちは自由に振る舞っているように見えるけれど「自由にしなさい」と国家から命令されているのかも知れない。私たちは自分の中に自我があると思っているけれど「自分を持ちなさい」と教師から矯正されてしまっただけかも知れない。言語はとっくに見えなくなっているけれどもすべては言語媒介行為である。
無意識にしてしまう行為の中にも私はとことん言語を診ていきたい。ある日からこういう立場で思考するようになってしまった。つまり私にとって言語の射程は速くんが考えているよりも広い。ただこれまでの速くんの議論はとても素直で分かりやすい。私が噛み付いてどうにかなるものでもなさそうだ。
あきらめかけている振りをして。このあたりで少し詩論を。
中本速詩集『照らす』には「低性能応答プログラム」という作品がある。作者は面白がってくれることを意図しているかもしれないが。私はこの作品に批評性を感じる。言葉に対する作者の感覚が診える。相手が低性能のAIであるという前提に立てば話者はとても滑稽である。のどかな光景である。
しかし本当は人間かも知れない。そう思って読み直す。コミュニケーションの不能が逆に映し出される怖い作品だ。人と会話をするという事が本質的に独り言であるということを示している。独我論の世界を描いている。他我のない人生を生きている人はたくさんいるだろう。
独我論から出ることは容易ではない。私は人生で一度も他我になったことがない。別人になる振りをしたりヒーローになる夢をみたりすることはできても。どこまでもそれは私のアバターである。他我はあるのか? 「ある」と云う相手が真剣に語れば語るほど。その証拠が遠く去ってゆく。
W氏は云う。《世界とは私の世界である、という事実は、この言語(わたくしが理解する唯一の言語)の限界がとりもなおさず私の世界の限界を意味するという、その点に現われる。》(『論哲』五・六二)。「言語=世界」という問題はどこまでも独我論と結託している。
速くんの次の課題は独我論を打ち破ることである。私はそれを見届けたい。W

【補足】
ここで私が「独我論」と「言語=世界」論を結びつけたのは拙速だったかもしれない。中本速氏の考えはとてもシンプルに「世界の方が広い」と表明している。一方私は「世界と言語はどこまでもぴたりと重なっていなければならない」と言い張っている。そのような難癖に対しても誠実に対応してくれた。
「独我論」に議論を移す事は問題をすり替えてしまう嫌いがある。だからここではそれを自分で解決してしまおう。他者の存在を疑う。確認できるものしか信じない。デカルト的懐疑を貫くとこの世界は存在しない。あるのは懐疑あるいは思考だけという事になる。その観点に立つとそもそも「世界の方が広い」という議論は消えてしまう。だから「自我だけがある」という前提が崩されない限り話は一歩も進まないのだ。
ところで「独我論」を崩す作業は簡単な事ではない。それをやるために生涯をかけて膨大な著述を残している哲学者はたくさんいるのだから。例えば永井均氏や野矢茂樹氏の仕事を参照するだけでもわかる。議論は果てしない。おそらく終わらせることができない。

私はそのことに気が付いていながら中本速氏にそれをふってしまった。これは意地悪というものである。

中本速氏へ
という事で独我論を課題にするのは後回しにして。もう少しお互いの言語観が明らかになるような話ができればと思います。テーマをがらりと変えて。詩における定型についてお互いの意見を交換したいと考えますがいかがでしょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?