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根拠

お前が正しい根拠を言いなさい。と彼が言っていた。僕はこの言葉から離れることができない。お前が正しい根拠、これは途方もない問題なのだ。お前は何者なんだと問われて答えに窮すような、お前は何者でもないのだと言われているかのような、よるべのない不安に近い感情が付き纏っている。僕が正しい根拠はどこにもなくて、僕の感じている世界には誰もおらず、僕は世界のどこにも存在していないのとあまり変わらないのではないか、とさえ思えてしまう。

前に読んだ本に、同じようなことが書いてあった。科学のやり方では世界の見方のうちの一つを行うことができ、僕の視覚で捉えられたものと似たような世界を見ようとすることはできる。その上で何かが正しいと言うことはできる。でもそれはあくまで代理なのだ。僕がいる世界の中で、また新たに擬似世界を作り出しているのだ。世界のあるがままでも、僕の見たそれでもない。だから直接僕が見たものは僕にしか肯定できない。しかしそれでは誰かに僕の正しさは証明できない。お前が正しい根拠などないのである。

つまり、僕が正しい根拠、そんなのどこにも担保してもらえるわけがないのだ。そして僕さえも僕の世界を担保できないと思ってしまったら、それで僕はもう狂うしかないのである。これは非常に危なっかしく、しかも日常的なものであるのだ。

だから誰かが正しいためには、誰かがその人を肯定してやらなきゃいけない。もちろん絶対的な正しさは担保できない。しかしそれに近いものを彼に与えられるとすれば、それは例えば友人であり、彼が愛し彼を愛する人によるものである。誰かが肯定してあげなければたちまちその人の仮の正しさの根拠は失われてしまう。これは別の言葉で言い換えることもできる。孤独である。

彼は人に正しさの根拠を求めた。しかし本当は彼は自分自身の正しさの根拠について、わからなくなっていたのではないか。彼も孤独だったのだ。 悲しさの暴露、魂の叫びであったのだ。愛されたい、その表現方法を他に知らなかったのである。

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