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緩やかなつらなり

よく言えば、とっさの状況判断に全てを委ねることにしている。それが上手くいってるとは思わない。

例えば、この前二日振りにシャワーを浴びた。思えば風呂とは、みんなと同じ場所で裸になることなのだと誰かが言っていた。そんなことを思いながら体についている何日か分の自分に別れを告げる。過去の、今日とほとんど変わらないはずの自分が泡と共に排水口に流れていく。この時、初めてきのうが過去になると思う。特に、徹夜明けのあの清々しい朝に浴びる温かい水は自分を生まれ変わらせてくれる。そんな予感がする。そのまま布団に戻らなければきっと、それは素晴らしい一日になるに違いない。これも十分に予感している。

どこかに行きたい、ここではないどこかへ、と関東を出るための受験をした僕だった。今はもうどこにも行こうとはあまり思えない。そうだからといって現実に足をつけて生きようともしていない。場当たり的に、何か強い意志を働かせることのないまま、環境に受動的に生きている。時々文句を言う。虚しくもそれとは別個に世界は存在している。

寝ぼけ眼に刺す日は既に低く、ああ冬の太陽の南中高度は低いのかと新しく発見した積もりでいる。今日もまた午後に起きてしまった。風呂に入ろうか。お腹が空いた。これを起きるたびに繰り返している。今日もまた、生活をつかみ損ねた。昨日もそうだった気がする。

今日は少し違った。いつか頼んだトースターが届いた。朝にパンを焼く。朝をその緩やかな連続体から切り離す行為だ。今日は朝があった。10日目ほどであろうか。

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