最近読んだ本シリーズ:1

石原慎太郎『太陽の季節』
(三島由紀夫、他編 河出書房新社 1964 石原慎太郎文庫より)

作家より政治家の印象の強い世代だが、彼の就任中の強い口調や日常使いしなさそうな言葉遣いと今回の作品とはそこまで違和感のないものであった。主人公は力強い存在で、バスケをやめ、ボクシングを部活動に行う青年である。所々作者自身の生活に重なる部分があることを鑑みるに、あるいは作者氏も何かスポーツを行なっていたのかもしれない。彼の作品のうちで彼の印象と大きく異なるのはスポーツのように性行為を行うことであろう。そして性行為は本作品で度々描かれ、重要な要素となっている。

なぜ私がこの本を手に取ったかという動機は二つあり、以前より読もうと思っていたが、芥川賞受賞作であると判明したからというのと、他の本で著者について言及があったからだ。その本とは、中公新書から出ている、竹内洋氏の『教養主義の没落』である。この本での教養主義とは、旧制高校的風潮ということもできる、「教養」への憧れ、知識偏重型風土のことであると私は解釈した。知識による一発逆転的的特徴を含む農村的根性によるものとされる教養主義は旧帝国大学に引き継がれ、左翼的エリート思想の受容母体となる。それに対し石原慎太郎は旧帝国大学出身ではないという出自や、処女作が左翼思想の学生らによって娯楽小説と酷評されたことにより、反動形成的に二作品目である『太陽の季節』を書いたのだという。

その教養主義の特徴の一つに、肉体的貧弱さがあげられる。運動を好まず、そしてしないのである。その対抗概念ともいうべき肉体性は、『太陽の季節』の全体を通じて描かれている。彼らが敵視するブルジョアの放蕩少年の物語である。

三島由紀夫や大江健三郎が編集した彼の全集の解説によれば、この物語は作者の生涯のテーマの一つ「本来の人間」像を描こうとした作品であるということだが、決して性や暴力が人間の本来的なものであるとするような、本性を欲望ととる安易な作品ではない。暴力や性行為の中、ある特定の条件の時にそれは確信のないものとして、刹那の中に発現する。決して奔放さそのものにあるわけではない。無法な存在であることがその条件ではない。現に、ルールの下行われるボクシングの最中にも発現する。そして、直接恍惚というわけではない。不完全な状況として、実現は結局行われない。つまりせいぜい人間本性のようなものに近づいている状態でしかない。不完全でしかないからこそ、この作品以外にも彼は同じテーマで作品を書いたのだろう。



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