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長いやすみの次の日

 とくに理由はないのですが、ツイッターだととりとめがなさすぎたり、長すぎたり、かといってブログに書くことでもないなあ、と思ったことを書き留めておこうかなと思ってnoteをはじめてみました。
 たくさんのすきな方々が使っていらっしゃる媒体で、いつかやってみたいなあと思いながら使い途がよくわからなくてはじめられずにいましたが、仕事をちょっと長いこと休みますと宣言して休んで、また仕事を再開し始めた今日(2019/9/21、もう22だけど、ばっちり時差ぼけています)、なんだかパワーが湧いてきたので思うがままに登録してみました。2分くらいで済んでしまった、便利だねえ。

 パワーが湧いてきたのが、やすんだからだとしたら休むことはめちゃめちゃ有益だなあ、と思いました。

 やすみが明けて1日目で時差ぼけもしているし、旅で食べすぎていて体もおもいのに、なんとなく(からだ以外のところで)かろやかで、いつもならよっこいしょと思うことを半分くらいの気持ちでやり始められたりして。

 そもそも絵を描いたりものをつくったりするのを仕事にしてから、仕事と休みの境目が曖昧で、この仕事は今日は休みだけれどその間にこっちの仕事すすめておこう、みたいな、このメールは時間がかかりそうだからこっちの仕事の休憩のときに返そう、みたいなことが多く(なんだかめちゃめちゃ仕事をしていそうな風に聞こえますが、たぶん普通にお勤めの方よりはへらへらとはたらいているので誤解です)(誤解ですとは)、でもまずすきなことややりたいことが仕事ということもあるからそもそもたのしい時間も多くて、だからはっきりと仕事とやすみを分けないことがくるしいとかしんどいという感覚も薄めでした。でもやっぱり、やりたいなあと思って始めたことでもしんどかったり面倒なことはあって、体力よりは精神がけずられていってしまったようで、絵を描きたくなくなってしまった、みたいなことがじわじわとやってきて、このままこのさきずっと絵を描きたくなくなってしまったら、どうやって生きていくのかしら、というのを具体的に妄想し始めてかなしむという生産性のなさすぎることをして、ひとりで落ち込んでいっていました。もともとの容量もちいさいのだと思います。

 というところでの、長いおやすみをいただいて、なにか考えてもいいしなにも考えなくてもいいし、絵を描いても描かなくてもいいし、いつもと同じ画材でもそうでなくてもいいし、うつくしいものをただ見て、あるいはその中に入って、しらない場所を歩いて、しらない街で夫とデートして(たのしかった!)、やさしいひとと出会って、しらない食べ物を体に取り入れて、しらない海で泳いで、しらなかった植物やいきものを見たりさわったりして、湧いてきたのがこのやんわりとしっかりと自分の底を押し上げてくれているようなパワーみたいなものだとしたら、めちゃめちゃ良いです。やすむの。当たり前のような言葉でごめんなさい、でももうすぐ28歳の秋にしてはじめて実感を持って知りました、やすむのは良いぞ。


 最初は家具のはなし(?)をしようとしてnoteはじめよ! と思ったのにやすむのは良いはなしになってしまいました(どうして…)。
 その気になったら家具と旅で思ったことのようなはなしも書きたいなと思います。

 それではおやすみなさい。


追伸:最初の写真は旅ではまった、サンタマリアノヴェッラ薬局のハーブティーです。咳の止まらないわたしに夫が旅のあいだ中ずっと淹れてくれていたよ。

おいしいお茶をいただきます。