小さな窓から覗く、大きな社会

まず初めに

これは一介の理系大学生が昨今の社会を観測していて思ったことをまとめているだけのものであり、特定の主義主張を行うものではないことをここに断っておく。
またこれから書く内容について専門的な教育を受けている訳ではく、これらを裏付けるような科学的根拠は存在しない。極端に言えば筆者の妄言でしかない。あくまで一個人の社会に対しての感想程度であることに注意して読んで頂きたい。

1. Twitterトレンドの主張と村社会の精神


初めから中々に際どい話題ではあるが、特定の主義主張に対して賛同、否定を行うものではないことを重ねて断っておく。

昨今のインターネット、特にTwitterと言う場を見ていると否が応でも目に入るのが、トレンドに上昇している政治系の話題である。
これらの話題に対して、筆者も初めは眉を顰めることが多々あった。しかし、ここ近年は比較的これらの話題は肯定的に捉えられている。

当然ながら、これらの話題がTwitterで論争を巻き起こす際には左巻きと右巻き、両方の話題が浮かび上がるが、大抵左の人間は右の人間の発言に対して批判的な文章を書き、その逆も然りと言った様子だ。
これらの流れにおいて、個々人があえて強い意見を発することで、自分の周囲に自分と同じ意見を持つ人間を増やすことに強い心地良さを得ているのではないかと考える。
ここでは、この事象を精鋭化と呼ぶことにする。

話は変わるが、昨今の風潮として日本の村社会について、現代は比較的否定的な印象を持たれているように感じる。
確かに、これらの村社会と言うのは負の側面が多く、一概に良いものだったとは言い辛い。
だが負の側面しかないのなら、長い間日本に村社会が存在していることに些か疑問に思う。これにどのような正の側面があるのかを考えてみた。
その結果、考えついたのが社会的な肯定感であった。ここで言う社会と言うのは人間の集まりの事を指す。
特定の社会に属し、ここの意見に賛同することによって社会から一個人に対しての承認を与えられる。これが自己肯定感となるのではないか。

本題のTwitterの政治系トレンドと精鋭化について話を戻そう。
この精鋭化と言うのは現代の村社会であると筆者は考える。

現代の村社会の特徴として、人の所在地が全く関係ないと言うことが挙げられる。過去の日本においては、形成される村社会からの離脱は文化的にも難しかった。
だがしかし、現代の実態を持たない社会では、そこに入り込むことも出ていくことも非常に容易になっている。属するコミュニティの出入りの容易化は、コミュニティ全体としての意見が自分のものと相異なった際に意見に対して深く考えるのではなく、そのコミュニティからの離脱と言う選択肢を選びやすくしている。

これは従来の村社会にはなかった、コミュニティの分断を可能とし、より深く、より濃く社会を精鋭化していくことに繋がる。

こうやって精鋭化した集団が分断を経てより深く精鋭化する中で、特定の集団内で傍から見たら荒唐無稽な主張であったとしても支持を得ている姿を見ると、様々な技術や概念が発達した現代においても、村社会と本質的な部分は全く変わっておらず、それを繰り返す人間を観測することは非常に面白い。

2. 書店の本棚は人間を映す

さて、話は変わって今度は実社会の書店の話である。
先日久しく大学に出向いた際、諸般の事情で2時間程度の空白時間が生まれた。
必要な用事を済ませた後、目的の時間まで残り1時間。どのようにして過ごすか考えた筆者は、ふと新たな書との出会いを果たそうと書店へ出向いた。
過去、筆者は自らの専門書籍のコーナーや趣味の漫画や小説の棚ばかりを見ていたが、それでは結局似たような本を買ってしまうと思い、全く見たことがない本棚へと足を向けた。

経済、経営、社会と書かれた棚にあった本は、人間の欲望を率直に映していた。

棚に並ぶはFX、副業などの本業以外で稼ぐ方法を記したであろう多数の書籍から、社会の棚では2020年を象徴する病気に関する本や隣の大きな国に関する書籍が、書店の棚でもその国土を象徴するように面積を取っている。
従来この棚に何があったかまでは筆者は把握していない。もしかしたら前者の書籍は過去から相当数の本があったのかもしれない。
しかし、後者は近年特有の書籍であり、世相を映していると感じたのを鮮明に覚えている。

さて、これらは大きく目についた書籍に関する話だが、ここでとあることに気づいた。
東大や京大を始めとする、名立たる大学やその学生を冠した本がやけに目に付く。
それらに所属している方が非常に優秀であると言うのは疑いようのない事実であり、これらの書籍の内容に対して何か言うつもりは毛頭ない。
しかし、これらの本が多数出版されているということは、言い換えればこう言った本が多数売れていると言うことだ。ここでは、なぜ売れているのか考えようと思う。

ここ暫くのインターネットを見ていると、反権威主義的な視点が目立つ。しかし、権威主義と言うのは本当に悪なのだろうか。
前述したような書籍が売れる理由として大きなものが、この権威にあると考えている。

この大学の学生がやっているからそれをすれば自分も優秀になれる、自己を高めることが出来る。

こう言った思考になるのは、これらの大学に権威があるからこそである。
もし仮に書籍のタイトルにある大学の名前が、読者にとって見た事もないような名前だったのなら、その本を手に取る人間は極一部の奇特な人間のみになるだろう。
反権威主義的視点は、これらの名前に対する信用と言う点が抜け落ち、単に自分の気に喰わないことだからと言って否定しているのではないのだろうか。

…単に発言を行った人の立場だけを見て正しいと主張する人間も居て、これを見て権威主義を悪と言う人間も居るが、これは権威主義と言うより前者のような人間が単に馬鹿なだけなのだと思う。

書店の本棚を眺める筆者の頭には、そのような思想が膨らんだ。

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