『平易に書いてあるのに全然意味が分からない一文』

マイケル・ホワイトの「人生の再著述」の読書会に参加しました。
今回は、専門家の知の外側での章、p95~113が対象でした。

前回に引き続き、
『平易に書いてあるのに全然意味が分からない一文』にずっと執着してしまい、これはいったい何を言っているのか、どういうことを伝えようとしているのか、グループの分かち合いをラジオ的に聞きながら、一人悶々と考え続ける時間になりました。

グループの会話に参加せずにそこにいるという、身勝手で消極的な参加でしたが、その会話が助けになっていたのは間違いなくあって、その場で言葉にできるほど熟してなかったのですが、ようやっとつながりました。
ありがとうございます。


「私がこの質問をしたとき、私がどうやってその質問を思いついたのか、あなたには興味が湧かなかったですか?」
と尋ねてみることで、セラピストのかかわりは脱構築される。(p110)


なにこれ?自慢?煽ってんのか?と、最初思いました。
いつなんどきこの表現で問いかけるのか、いよいよピンとこない。
マジシャンがマジックをやってみせて、俺のマジックのネタばらし興味ない??どう?って聞くような、
むしろ立ちの悪いイメージが湧いてきて、全然意味が分かりませんでした。が、

リフレイミング―家族療法の特殊技法。症状あるいは行動を、なにか違ったものに言い換えるだけでなく、そのように認知される文脈を変えることで、治療的成果を上げようとする―においては、人の経験についての新しくてより良いストーリーを生む責任がセラピストの側にあります。しかし、再著述というのは、すべての諸個人が積極的に「意味をつくりあげること」に参加してもらう過程なのです。(p105)

を何度も読んでいるうちに、
物語はその語り手が主役であって、聞き手の解釈や判断で語り手に無理強いして良いものではなく、
マジックの比喩のようにマジシャンが仕込んで披露するといった、自己完結するものでもないんだと、
そう言っているように思えてきて、

ナラティヴ・メタファーは、セラピストが自分の中の確信に挑戦することを要求してきます。(p104)
治療的現実の構成に関連して、セラピストが再帰的―以前の行為について、あるいは行為の最中にその行為を振り返ることによって将来の行為を変化させること―な立場に入る様励まします。(p105)

このことを言っているのか!その実践としての質問なのか!と合点がいきました。

それに加えてもう一つ収穫があったのは、前回のふりかえりで話にあがった部分、

以前であれば理解できなかったであろうことで理解できるようになったこと、そして、それが私にとって個人的にどのように影響したかということについてコメントすること(中略)「贈り物」として経験したようなこと(中略)新しい「考えるための道具」を提供してくれるような言葉や文章(中略)こういったことを同定し、治療的文脈において言葉にしていくことは、とても相手を元気づけることなのです。(p93)



私がそのコメントを私の個人的な経験、創造、そして意図という文脈のなかに据える機会を持つのであれば、諸個人は、自分たちがそのコメントどのように使うのかを独力で決められるのです。(p111)

という部分が結びついて、再著述が「意味を作り上げること」に参加してもらう過程という、その表現がよりしっくりきたし、

私が問題にしているのは、小文字のvではじまる価値観valueのこと。(p94)

がもう一段腑に落ちた感じがしました。


ひとりで読んでいると、とある一文に留まり続けるというのはなかなか集中力が持たず、やろうとしてもやれないので、とても新鮮な体験でした。

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