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時間をおいてもう一度眺めること

Usual Lunch 13:44 13/11/2019 (depict) (paint) (mix)

去年、初めて現代アートを買いました。上の写真はリビングに飾っているわにぶちみきさんの作品です。きっかけはなんとなく家にアート飾りたいなぁとネットサーフィンしてたことなのですが、わにぶちさんの作品を見ていた時に、自分から大事にしていた「言葉」に対する感覚と似たものを感じたので、ギャラリーに足を運んで、その感覚をご本人に伝えて、少しお話をしました。作品の意図や制作過程をお聞きする中で、やっぱりこの作品は僕の手元に置いておきたいと思い、購入を申し出て、今うちのリビングにあります。
まだまだ、この絵に込められたもののほんの一部しか感じとれていませんが、たまに時間を作ってこの絵を見ていると、そのたびに違った見え方をしたり、新しい発想がでてきたりするので、自分の中で大事なものにどんどんなっていっています。

2022/1/23 ODのDX「オフィスは何のためにあるのか?」より

時間を空けてみるという行為により自分の中での内的対話がうまれる。繰り返すことでこれが層になっていくとしたら、これはなかなか面白いなぁと思っています。もし今、過去に書いた自分のメモ書きをみたら、今この瞬間どんな内的対話がおきるのか、勢いで書いてみようと思いました。

上の画像は組織開発のDXに興味がある人達で「オフィスは何のためにあるのか?」というテーマで対話をしたときに、頭の中に浮かんできたイメージをホワイトボードに書いたものです。

オフィスの立ち位置の変遷として、僕の祖父のように田んぼで米作って生活が完結していたオフィスがない1.0、会社勤めでオフィス通勤をするようになった2.0、テレワークになって家の中がオフィスになり、PC画面を通じて色んな人に顔を合わせるようになった3.0と区切って書いています。

今改めて眺めてみると、「身体」というキーワードがとても引っ掛かりました。ちょうど今日はZOOMの打ち合わせが4件ほど入っていて、合間合間で色んな人に電話で壁打ち相談していたら1日終わったみたいな日でした。ハイ次の会議、ハイ次の会議・・・合間合間で〇〇さんと電話して…とやっていくうちに、身体が置いてきぼりになっているような感覚がありました。ふと、通勤時間という無駄に思える時間や会議室への移動など、身体の準備という文脈で意味があるのかもしれんなぁと思いました。
あと、ホワイトボードの右下に「自分を持っていける場所は安心する」と書いていて、これはオンラインオフライン問わず、安心できる場は作れるという意味も込めました。今日はまさに安心安全な場づくりを意識して社内でランチミーティングをした日だったのですが、ZOOMに入る/出る、ブレイクアウトルームが始まるおわるということ自体がぶつ切りというか余白がないというか始まりと終わりがはっきりしすぎているように思えて、「安心」からは遠ざかる感覚がありました。

例えば、人と待ち合わせている時に相手を見つけて近づいていったり、またね~と言って相手を見送ったりするときの身体的な距離の変化を視覚で感じるだとか、テニスの練習時に、だんだん身体があったまってきて、そのうち疲れてきて、疲労感とともにそろそろ終わりかなといった身体感覚だとか。こういうだんだん始まってだんだん終わっていく感覚がオンラインの場でも視覚的あるいは身体的に組み込めたら、何か感じ方変わったりするんでしょうかね。知らんけど。
余白とか余剰ってどうやって作ったらいいんだろうなー。オフィスにいて顔を突き合わせるときは余白とか余剰を意識して過ごしたいと思いました。

ではではまたね。

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