否定の肯定

先日高校時代の友人宅で食事会があった。その際同席したある友人とは久々の再会で、これまで年賀状程度のやり取りはあったが直接顔を合わせるのは数十年振り。徐々に思い出が蘇り、楽しい時間となった。
後日、昔彼女としたある会話を思い出した。学校の帰り道、電車の中でどういう流れだったか「互いに本当に分かり合うっていうのは不可能だよね」と話した。それまで楽しく言葉を交わし、むしろ前より気心が知れたように感じながらふとそれに同意し合った時、わたしはなぜか『滑り落ちる!』と心の中で叫んだ。揺れる車内で足元がぐらつき、私は凍った斜面を滑落するような感覚を覚えた。その時彼女がどんな様子だったかは覚えていない。ただ軽く笑い合ってその場を取り繕ったような気がする。

分かり合えないことを、分かり合う。それは皮肉な同意で私には絶望の感覚があった。それまで私は分かり合える誰かの存在を単純に信じていた。どんなに言葉を尽くしても、どんなに想っても分からない、分かり合えない。そのことはなんとも孤独で、相手は見えるのに近付けない、ガラスケースに閉じ込められたような寂しさを感じた。

しかし今、改めてそのことについて考えてみると、さほど怖くはなくなっている。若い頃よりは他者への期待も減った。相手の考えなど分かりはしない、そもそも自分のことさえ分からないのだ。それでも分かりたいという気持ちが、惹き付けられ近付こうとする動機となる。何もかも分かっているなら知ろうとする理由もない。
また、自分が分かられないことについても構わないと感じる。分かって貰えるよう伝えるけれど、分からないならそれでいい。分かったつもりの相手には、それは違うと言えばいい。

分からないことは可能性だ。いずれ分かるかもしれない、そして人は変わっていく。そんな風に自他を肯定できるなら、分からなさは希望だ。互いの分からなさを肯定する、私が本気で関わろうとする人たちとはそういう関係でいたい。

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