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好きな文章⑥ カミュ『シーシュポスの神話』

 前回はこれ↓

 
 さて、カミュは芸術について語っている。

いや、おそらく、偉大な芸術作品の重要性は、それ自体のなかにあるというよりは、むしろ、作品が人間に要請する試練のなかにあり、また、人間のいだく幻影を乗り越えて、自分の赤裸々な現実にすこしでも接近してゆく機会に作品がなるという点にあるのだろう。

p.203

 ある芸術作品が重要なのは、それが人間の試練と直接結びついているからだ。パッと思いついたのはドストエフスキーだが、人間の現実を写し出している、あるいはそれに肉薄しているからこそ偉大な作品と言えるのだろう。しかしそのあとでカミュはこう付け加える。

いわゆる問題小説、もっとも嫌悪すべきものである、あの証明を行う作品とは、もっとも多くの場合みちたりた思考から着想された作品である。自分が真理を所有していると思っているとき、ひとはその真理を論証する。だが、この場合は既得の諸観念を動かしているわけで、そうした観念とは思考と正反対のものである。

同上

 たしかに、あらかじめ決められた「真理」を論証する芸術は、あまり面白くないだろう。思考の格闘の跡が作品に刻まれている必要がある。

次からはいよいよ「シーシュポスの神話」の章の引用

シーシュポスは人間たちのうちでもっとも聡明で、もっとも慎重な人間であった。しかしまた別の伝説によれば、かれは山賊をはたらこうという気になっていた。ぼくはここに矛盾を認めない。

p.210

 このあとでシーシュポスは「不条理な英雄」だといわれている。合理性を欠いていることは、人間にとってめずらしいことではないし、「不条理な英雄」ならなおさらだろう。かれは神々に罰せられるのがわかっていながら神々に舐めた態度をとったりする。

神々に対するかれの侮蔑、死への憎悪、生への情熱が、全身全霊を打ち込んで、しかもなにものも成就されないという、この言語を絶した責苦をかれに招いたのである。これが、この地上への情熱のために支払わねばならぬ代償である。

p.212

 反抗的人間の極地とでも言うのだろうか。シーシュポスは巨大な岩をひたすら山の上へと転がして、しかし頂上にたどり着いた瞬間にまた麓まで落ちてしまうからまた頂上へ転がすという苦行を課せられている。無意味さが彼に襲い掛かる。そしてこれは当然人生のメタファーでもあるだろう。ところで、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の中のマーサー教に関する描写に似たようなのがあった気がする。ひたすら山を登る苦行者的な。覚えている人がいたら教えてほしい。


こんにちの労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。その運命はシーシュポスに劣らず不条理だ。しかしかれが悲劇的であるのは、かれが意識的になる稀な瞬間だけだ。ところが、神々のプロレタリアートであるシーシュポスは、無力でしかも反抗するシーシュポスは、自分の悲惨な在り方をすみずみまで知っている。

p.213

 自分の状況に、つまり悲惨な運命にあると知っているからこそ悲劇的でありうる。これは一般的に考えてもその通りだろう。ブータンは幸福度ランキングで上位に位置していることで有名だが、近年、順位が下がってきたらしい。その原因は、インターネットの発達でほかの先進国の暮らしをどんどん知るようになったからだとか。知らないほうが幸せということは、実際よくある。しかし、シーシュポスの偉大さはその悲惨を直視して自ら岩へとおもむくところにある。ニヒリズムの超克、ニーチェでいえば超人の姿だろうか。ここらへんは結局のところ、「運命を受け入れ、しかもそれを積極的に生きる」ということに尽きる気はする。

あの地上のさまざまな映像があまりにも強く記憶に焼き付いているとき、幸福の呼びかけがあまりに激しく行われるとき、悲哀が人間の心のなかに湧き上がることがある。これは岩の勝利だ、いや岩そのものだ。かぎりなく悲惨な境遇は担うには重すぎる。これがぼくらのゲッセマネの夜だ。しかしひとを押しつぶす真理は認識されることによって滅びる。

p.214

 いよいよラストに向かって盛り上がってきた。「地上の映像」とはシーシュポスが神々のいるところから抜け出して人間のいる地上に降りてきたときの記憶だ。カミュはそれを地中海の美しい海と自然をモチーフに描いている。しかし今やそれは記憶の中にしか存在しない。

 ゲッセマネとは、イエスがいよいよ十字架にかけられるのをはっきりとさとる場所だ。抽象的にいえば、悲惨な運命が自らの上にのしかかってくるときだ。しかしカミュは、それは「認識されることによって滅びる」という。さらに続きをみてみよう。

「私は、すべてよし、と判断する」とオイディプスは言うが、これは〔不条理な精神にとっては〕まさに畏敬すべき言葉だ。この言葉は、人間の残酷で有限な宇宙に響きわたる。すべてはまだ汲みつくされていない、かつても汲みつくされたことがないということを、この言葉は教える。
~この言葉は、運命を人間のなすべきことがらへ、人間たちのあいだで解決されるべきことがらへと変える。シーシュポスの沈黙の悦びのいっさいがここにある。かれの運命はかれの手に属しているのだ。かれの岩はかれの持ち物なのだ。

p.215

 「この言葉は、運命を人間のなすべきことがらへ変える」とは、(真理というものはわからないがとにかく)運命を肯定することで、「私はそう判断する」と、運命を人間の領域へと引き込むということだろう。ニーチェもそのようなことを言っていたはずだ。正直言うのは簡単、というか平明な言葉にしてしまえばなんてことない話の気もするが、とにかく一つの到達点であることは間違いないだろう。

ひとにはそれぞれの運命があるとしても、人間を超えた宿命などありはしない。すくなくとも、そういう宿命はたった一つしかないし、しかもその宿命とは、不可避なもの、しかも軽蔑すべきものだと、不条理な人間は判断している。それ以外については、不条理な人間は、自分こそが自分の日々を支配するものだと知っている

人間が自分の生へと振り向くこの微妙な瞬間に、シーシュポスは、自分の岩のほうへと戻りながら、あの相互につながりのない一連の行動が、かれ自身の運命となるのを、かれによって創りだされ、かれの記憶のまなざしのもとにひとつに結びつき、やがてはかれの死によって封印されるであろう運命と変るのを凝視しているのだ
 
こうして、人間のものはすべて、ひたすら人間を起源とすると確信し、盲目でありながら見ることを欲し、しかもこの夜には終わりがないことを知っているこの男、かれはつねに歩みつづける。岩はまたもころがってゆく。

p.216

 「盲目でありながら見ることを欲し」、これはまさに人間の不条理を表しているだろう。最初にこの文(ラストの全体)を読んだときは本当に感動した。もちろん今でも素晴らしいとは思う、が正直、微妙な違和感も感じる。運命を自分のものとすること、自分が日々の支配者であると認識すること。これは多くの宗教の理念とは真っ向から対立するものに思える。が、完全に不自由であることはもはや自由であることとさほど変わらないように、これは表裏一体の考えなのではないかという気もする。

このとき以後もはや支配者をもたぬこの宇宙は、かれには不毛だともくだらぬとも思えない。この石の上の結晶のひとつひとつが、夜にみたされたこの山の鉱物質の輝きのひとつひとつが、それだけで、ひとつの世界をかたちづくる。頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに充分たりうるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わなければならぬ。

p.217

 こうして存在が肯定される。しかし、「シーシュポスは幸福なのだと想わなければならぬ」と言われても、理屈の上ではそうかもしれないが、今の私には「なるほど!」とは思えない。これには文学の力強さと限界がかかわっているように思う。

 ともあれ、この(解説にある言い方を借りれば)「現在時の地獄」をそのまま「王国」へと神なしで転化させようと願う姿勢には、感じるところがある。

追記
カミュは無神論の立場だろうけど、やはりこの手の無神論はキリスト教などの一神教の裏返しだと感じる。東洋の思想とは雰囲気が大きく異なる。


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