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”まとも”さの正体。

常識が無い、社会性がない、大人でない、でも(最低限の協調性の中で)個性を大事に、ともいう。

つまり、使い分けをしろ。ということだ。

私たちの多くは資本主義民主法治国家の中にあるのだから、そのルールは守ろう。そのうえで個人の主張、生きがいを見つけよう。と誘導される。

理性(協調性)の裏側は安心感、本能的に生命を脅かされない枠組みを認識すること。逆を言えば生存する安心感があれば協調性は不要になる。協調性に必要な他者からの”まとも”さ要求も同様に。

一部は社会不適合者と言われるかもしれませんが、仮に経済的困窮にあってもどこかに安心感を秘めているのかも。と思うことがあります。

例えばサラリーマンをやってて精神的に病んでしまい退職したあとフリーランスになる。けども病んでしまった経緯から、過渡な業務は行わない。(夜、土日は仕事を受けないし、メールも見ない、問い合わせもすべて遮断する)確かにやり方は自由にできるのがフリーランスの特性で、それで生活できれば問題ない。

なかなか真似できない。=それでは不安だから。なので、それができる人の正体を少し探りたいな、と個人的興味はありながらも、できれば直接は関わりたくないなーとか考える錆びた心情も確かに私の中に存在するんですよねー。


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