誰しもがどこかの誰かの役に立っている。 自分は役に立っていない。 これってなんの意味があるんだろう。 日常を過ごしているとそう思うことは誰でもあると思います。 私もそうですが、落ち込んでいる時などは特にそう思ってしまいます。 そんな時は、自分と誰かのためになっているストーリーを作ってみると 落ち込んだ気持ちが和らぎ、やる気へ転化していきます。 例えば、掃除や清掃などは人があまりやりたくないようなことをやっている時 やらされていると思うと なんで自分がやらなけれ
成長のために食べることや 収入を得るために技術を磨いたり経験を積んだりするのと同じように 気持ちを作ることができるようになることも人には必要。 作るようになれる必要がある気持ちは今ここに居るという「存在認識感情」 先祖がいる 家族がいる 友達がいる 人は人間関係の中で存在している。 存在を感じることができるから、 何かをやってみようと思える。 大小関係なく、誰もが何かの役に立っている。 自分ができることから始めて存在感を作る。 挨拶をする ゴミを拾う
評価に負荷をかける、かけない選択の話ですが、 私が思うには、逆をしているケースが多いのです。 私自身も、毎回選択を見誤らない訳ではないのですが、 ひとまず意識をするための考え方なので 皆さんも意識して選択を見誤らないようにしてみてください。 皆さんの関係のある会社の人、家族、友人、誰でもいいのですが、 誰かが100点満点中20点の成果を持ってきた時、 多くの人は何故20点だったのかの原因に寄り添う行為をします。 ひどい場合は、カミナリを落とされるケースもあると
人を育てるということはどういうことなのか? 「出来ないことが出来るようになるために出来る人が教える。」 一般的には、このようなイメージが教育することだと思いますが 教えるという行為は会社、子育て、スポーツなど、 どの世界でも日常にありふれています。 私たちは、この教えるという行為が育つことの妨げの 一端になっていると考えています。 過去の経験を思い返して欲しいでのですが、 幼少の頃から現在に至るまでに 些細なことも含めて無我夢中に取り組んだ経験があると思います。