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【第1話】時は2000年…24歳の私は思った。そうだ!韓国に行こう


当時私は正社員として高田馬場にある予備校の受付で働いていた。20代前半の私が好きな音楽は椎名林檎とJUDY AND MARY. 同世代は口を揃えて分かるわ〜という声が聞こえてきそうだ。
そんなごく普通のOLだったけど、唯一少し変わった趣味があった。
それは韓国語にハマっていたこと。
2024年に生きるみんなからしたら、え?韓国語にハマってるって別に普通の趣味じゃない?っていう声が当然聞こえてくるだろう。でも日韓ワールドカップの2年前である2000年当時は空前の中国語ブーム。「今やるなら絶対中国語だよ」と言われる中、韓国の「か」の字も聞かない状況だった。
ちなみに第一次韓流ブームを巻き起こした「冬のソナタ」が日本で放映されるのは3年後の2003年だ。
だから韓国語を勉強していると言ったら「え?なんで?」と言われたし、そもそも韓国語の教材が恐ろしく少なかった。ドラマなんてもちろん一本もなかったし、かなり大きいめのTSUTAYAに行ってもエロい映画が一本置いてるかどうかだった。ちなみにどうしても映画で勉強したいと思った私は勇気を出してそのエロ映画を借りてみたが、内容が微妙すぎて全然勉強にならなかったことは言うまでもない。書籍もこれまた新宿の紀伊國屋レベルで2冊ほど置いてる程度で、ましてやその辺の書店ではテキストすら手に入れるのが難しかった。なので学習手段はもっぱらNHKラジオ講座にお世話になっていた。そう思うといつの時代も幅広い講座を届けているNHKはすごいなって思う。
そんな状況だったので、紀伊國屋で手に入れた一冊のテキストとNHKラジオのハングル講座で黙々と独学すること4年ほどが過ぎていた。やればやるほど韓国語を話してみたい。何かテレビやラジオで生の韓国語を聴いてみたい。という欲求が強くなって、もうこれは韓国に行くしかない!と決意。

ただ当時は情報がかなり少なく、インターネットも懐かしの電話回線。使い放題ってわけでもなかったので気軽に調べ物もできなかった。なので調べ方は至ってアナログ。とにかく留学できる学校を調べて3校ほど直接資料請求。
それも韓国の学校に手紙で資料請求をした。
すると入学手続き等が書かれた書類が送られてくるので、そこに書いてある通りに願書を送って、大使館に行ってビザの手続きをして。と全部自分でやった。当時は留学エージェントとかもなかったか、もしくはあってもその情報をとるのが容易ではなかったのだ。

留学手続きはできたものの、さて韓国での住まい探しはどうしたものか。留学前に一度行って調べないといけないな。と思っていた時のこと。
当時私がパソコンとインターネットというおもちゃを手に入れてせっせこやっていたのが「メル友」だった。
これはメル友を募集できるサイトがあって、そこに登録しておくと見た人からメールが届くシステムで24歳の女性が登録したら、わんさかメールが届くのは今のSNSと変わりがない。
そこで絞りに絞った3人とメル友をしていたらある時、私が今年韓国に留学するっていう話をしたら「僕の知り合いで今韓国に住んでる子がもうすぐ日本に帰国するから紹介するよ」と言ってくれた。
めちゃくちゃありがたい。すぐに紹介してもらい、彼女とメールのやり取りが始まった。偶然にも同い年ということもあり私たちはすぐに仲良くなった。日本に帰ってきた彼女がすぐに会おうと連絡をくれ、難波の高島屋の前で初めましての挨拶を交わしてから24年経った今でも彼女とは大の親友だ。

私の韓国留学の話をしたら、彼女が韓国で住んでいた下宿のアジュンマに言っておくからそこを訪ねて行ったらいいよ。空港から下宿までは彼氏(当時の)に迎えに行くよう言っておくから着いたらここに電話して。と電話番号を渡してくれた。さらに銀行の手続きもその彼にやって貰えばいい。下宿先には一人日本人が居てるから彼女を頼ったらいいよ。とその子の連絡先もくれた。

初めましての私にここまでやってくれる彼女もすごいけど、初めましての彼女のいうことに乗っかって、異国の地韓国でカタコトの日本語を話す彼氏という人にこの身と1年分の留学費用を預けるのも今思えばかなりの博打だったと思う。

こんな感じで、4年独学したとはいえ全くと言っていいほど韓国語を話せない状態の中、一人で韓国に渡ったんですが、ネットで知り合った彼女のおかげで無事に銀行口座開設から下宿に辿りつくまで見知らぬ彼の力を借りてたどり着くことができました。

つづく


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