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○○になって、自分を大事にしたい。

11月のある日、十年以上使った眼鏡のフレーム
の一部が、ポキっと折れてしまい、買い替えることになった。

今は新しい眼鏡をかけてこの記事を書いている。

強度の近視と老眼を矯正をしてくれる眼鏡だ。
ありがたい。


実は、左目を3年ほど前に手術して、網膜乖離はまぬがれたが、
この病後、左目で見る映像は、右下がりに見える。
残念ながら、これは、眼鏡では矯正しきれない。


左目だけで見ているときは、わからないのだが、
右目だけで同じ物を見ると、左目で認識するものが、
歪んでいるということがわかる。


そもそも、わたしたちが、どのように物や人を見るかは、
主観的、選択的だという。


こだわり・囚われ・思い込み・無視など
という眼鏡をかけて、日常の様々な出来事を
認識しているのも同然で、


かなり歪んだ見方をしているのだ。


わたし自身、閉所恐怖症に悩まされて、
生きることが苦しくて、
統合心理学の心理セラピーを受け、


そこではじめて、わたしが、
自分自身をどのように見ているか、
自分自身をどう扱っているかに気づいた。


自分に対してビシバシと厳しい眼鏡をかけていたのだ。


あの人はできるのに、やっぱり、わたしはダメ
そんなこともできないの
そんなことわたしにできるはずがない
こんなことしたら、言ったら、他の人がどう思うか
このくらいのことガマンすべき


というぐあいで、わたしは、いつも緊張していて不安だった。
この眼鏡は、わたしの左目に起こった病気のように、


自画像も
自分との関係も
他人像も
他人との関係も
まわりの世界も


かなり歪ませていた。
苦しくもなるはず。


セラピーを通じて、自分に向き合い、見直していくうちに、
わたしの心の目にできてしまった眼鏡は、


子供時代に親、家族、まわりの人々から
言われたことや
どのように扱われたか

に起因するものだとわかってきた。

でも、一生涯を通じて、この眼鏡をかけていく必要は全くない。


眼鏡が引き起こす苦しみに気づければ、
その時から、わたしたちは、変わっていける。

眼鏡をはずしていけばよいのだ。

では、どうやって?


自分や、自分の言動をジャッジしないで、
優しい慈しみの目で見ていく。
どんな自分も受け入れていく。


受け入れられない自分がいたら、
そういう自分も受け入れていく。
今は、それでもいいんだよ、
と自分を勇気づけながら。

これだけで、眼鏡はかなり外れていく。

すると、眼鏡があった時には
隠されていた視野が出てきて、


自分の本当の気持ちや、
こうしたいという欲求を
少しずつ感じとれるようになる。

気づきが生まれてくるのだ。

その気持ちや欲求に気づけたら、
それに見合った言動を選びとっていける。


そう、自分で決めていくという
自由を手に入れることができるのだ。


勇気がいることだが、
これは、とりもなおさず、自分を大切にして
いくことだろう。


こうして、
本来の自分としっかりつながって
生きていきたい。


Reiko

(タイトルの画像は、夫から借りています。)


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