見出し画像

交換日記「発達が真にもたらすものとは何か?」

パートナーのこの投稿を読んで
『人はどこに向かっているのか。』
『なぜ人は発達や成長したがるのか。』

そんな疑問が浮かんだ。
そして、降りてきたのは、

憲法第13条 幸福の追求

条文
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

とある。
だからなんだという自分の中の突っ込みが(笑)

「(自分が思う)幸せになってはいけない」

そんな風に思っていた時期があります。
罪悪感を背負い、「私は幸せ」感を振り撒いて、心の奥底で幸せになれない言い訳をしていたのかもしれない。

パートナーに言われたことがある。
「罪悪感は自分を自分でいられなくするから」
「自分で自分のパワーを奪うために罪悪感はあるから」

そんなこと考えたことなかったから「はっ!」とした。自分の中にあるルールのようなものは小さな頃から積み重ねてきて自分を護ってきたはずが、他人を傷つけたことを隠すために、自分を傷つけてきたなぁって。

そんなパートナーの言葉に私はこう返した。
「罪悪感を持つ自分を受け止められない。そんな自分を許すことから。」だった。

幸せになってはいけない
は今思うと呪いだったんだと思う。
誰かにかけられた呪いではなく、自分で自分にかけた呪い。戒め、、、

罪悪感の存在を受け止めたことから、今の生活がスタートしたのかもしれない。

それもこれも、成長の一つだと噛み締めています。

発達や成長は人類のテーマなんだろあなぁ。
死ぬまで修行。

子どもは新しいことを次々にすごいスピードで吸収して、目にもわかる成長をする。
その感覚で大人の成長を考えるとそのスピード感の無さにがっかりしたりする。

私は時々、仕事中にふと振り返り
「スムーズに出来るようになったな」
「他チームと連携とれるようになったな」
と自分を誉めてあげることにしている。

大人=何でも出来て当たり前

の中にいると、自分を卑下して、マイナスに落ち込んでいくから。
大人でも「出来ないこと」は山ほどある。
そして、人によって差があって社会は成立してる。

『発達や成長は自分自身を知ることから』
だと私は思う。

私は成人発達理論を詳しく勉強しているわけではない。
パートナーの投稿や、研修資料を読ませてもらったりしたくらい。

パートナーきっかけにいろいろな自己啓発本を読んだりするのですが、いつも思うのは、

言葉が違うだけで、言ってることは同じじゃない?
理論や理屈の根底にあるものは繋がってる?

こんなことを言うと専門家さんに叱られるだろうか。

何が正しいとか正しくないとかは無いんだと思う。
人が生きていくには、一つの理論ではなく複数の理論が複雑に絡み合ってる。

だから、面白いのだ。
自分が生きているということも、誰かの人生も。

さて、パートナーの投稿にあったのは

「発達すると、すごい人/良い人になるのか?」

ある意味そうなれるんじゃないかって思った。
私にとっての成長は自分と繋がること。
他者の基準ではなく、自分基準で生きるみたいな。

「自分の真と繋がって生きる」ということは、誰かを無闇に傷つけたりはしない。自分のいたらなさを他人にぶつけたりしない。

一般的に解釈をするためには、何をもってすごい人、良い人なのかという基準が必要かもしれないけれど、そんなものは意味がない。
本当にすごい人って演じてないんだと思う。
他人が思う良い人になりたいとか、
誰かが思うすごい人になりたいとかって、
ただ在りたい自分でいる。

自分を生きた結果、そう思われる
みたいな感覚。
そして、自然に調和がとれるんだろうなって。

仙人みたいなイメージになっちゃった。

人は幸せを求めて発達するんじゃないかな。
私もまだ発達途中ですな。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

ではまた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?