ステイホーム ―コロナに揺れる、ひきこもごもな生活― 2

2.親、子に込めた思いのすれ違い

 親はいつまで親なのだろう?子どもはいつまで子どもなのだろう?8050問題、80代の親と50代の子どもの世帯を表す言葉。年老いた親が成人した子どもの援助をし続ける状態が社会問題化しました。なぜ、親が年老いても子どもを援助し続けなければならないのか?親以外の選択肢はないのだろうか?問題として取り上げる社会が、子どもへの援助を親に求めている。以下、親子を巡る事例を見ていきたいと思います。なお、取り上げる事例は個人の特定ができないようにいくつかの事例を組み合わせるなど、加筆修正を加えます。

 ジュンコさん(仮名)は40代の女性。ホテルで働いていましたが、コロナ渦の業績不振に伴う人員整理により、退職。退職後は失業手当を受けながら、生活していました。ただ、アパートでの一人暮らしは支給される手当だけでは維持できず、高齢の両親に事情を説明し、両親も次の仕事を決めるまでの間、一時期だけとの本人の話を信じ、援助を続けていました。

 退職から2か月、3か月経っても、本人の状況は変わらず。両親が今後について話をすると、「これまで仕事を続けてきたから、疲れが溜まっていた。もう少ししたら、動くから」と本人は返事をしていました。3か月が4か月、5か月、半年を迎えた時、両親は心配になり、再度本人に話をしました。話をすると、「お母さんとお父さんは私がどれだけ大変だったか、分かっているのでしょう。分かっているのなら、協力してよ」と本人に言われ、両親は話をするのが怖くなりました。

 その後も状況は変わらず。毎月、お金を取りに来る本人に声をかけますが、「分かっている」と一言、大声で言われるため、それ以上声はかけられず、両親は困っていました。そんな生活が1年経とうとした時、両親は親戚に事情を説明し、本人と話をする場に同席してもらうことにしました。

 両親からの連絡を受け、実家に来てみるとその場に親戚がいたため、本人はそのことに怒り出しました。「何で親戚がいるのよ」と怒る本人。「ジュンコもいい年なのだから、お父さん、お母さんに迷惑をかけるな」と話す親戚。その言葉に「関係ないでしょう。親が子どもに協力するのは当たり前じゃない」と反応する本人。家にある物を投げる本人とそれを抑える両親、親戚。その場は修羅場となりました。

 翌日、困った両親が警察に相談し、私を紹介され、来所されました。両親は私に「私たちももうすぐ80になります。自分たちのことも大変になったのに娘のことを考えないといけない。年を考えれば、娘が私たちの世話をするのが普通。それが逆になっている。いつまで続くのか、考えるだけで嫌になってしまいます」と話しました。私は両親に、「今日、家に戻ったら、今後の私たちの生活が心配で相談に行った。私たちはジュンコに協力したい気持ちでいる。でも、私たちには分からないことも多い。相談できる場所に相談に行ってみない?と本人に話してみて下さい」と伝えました。それから3日後、本人は一人、私のところに来ました。

 仕事を頑張ってきたのに、いきなり解雇になった。それを両親は分かっているのに、色々言ってくる。今の私の年齢だと仕事もすぐには決まらない。それを両親は分かっていない。自分たちが言えないから、先日は親戚を呼んで代わりに話をさせた。文句があるなら、私に言えば良い。親はいつまで親が援助すれば良いのだと言うけど、私だって両親の世話をしている。買い物に代わりに行ったりしているのにそれは無かったことにされている。私が大変な間だけ助けてくれても良いじゃない。親なのだから。本人は相談室の席につくなり、止めどなく私に話し続けました。

 私は、「両親に言っても分かってもらえないとジュンコさんが感じているのであれば、両親には言わない方が良いのかもしれない。でも、言わないといけない事情もある。その部分は私が代わりに話をする。その為には私がジュンコさんのことを理解しないといけない。私と定期的に話をしてほしい」と伝え、本人より了承を得ました。

 彼女と定期的に会い、話をしました。本人の話は、いつも同じような流れで終わりました。自分は一生懸命にやっている。それを両親が理解しようとしない。理解しようとしない両親が悪い。これまで頑張ってきたのだから、大変な時ぐらいは助けてくれても良い。それが家族であり、両親が大変になれば私が助けるのだから。

 本人と両親。お互いに相手に求めるものがある。自分の主張はする。でも、相手の主張を受け止めることはできない。すれ違い続け、その原因を相手に求め続ける。その間に立つ私は何ができるのか?「親なのだから」、「子どもなのだから」とどちらかの話に肩入れすることはできる。でも、それでは問題は解決しない。行動を求められた相手は納得せず、それがしこりとして残ってしまう。

 親と子ども。親は何をするのか?子どもは何をするのか?語られることに正しい答えはない。語られることは、語る人にとっての「親はこうあるべき」という親像であり、「子どもはこうあるべき」という子ども像。語る人が違えば、変わってくる。正しさを盾に相手に行動を求めることを止め、親はこうあるべき、子どもはこうあるべきに込めたそれぞれの想いを語れたら、そんな気持ちになります。それと同時に、親子という関係から一度離れてみたらとも思います。

 近くづくにしても、遠ざかるにしても、お互いに分かり合えないということをお互いに認めること。分かるということに執着せず、分からないことが分かるようになること。そこからしか、新たな関係は生まれてこないのかもしれない。私はそう思います。

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