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2020年10月26日

自分が何をしたいのか、向いているのか、人生の途中途中で考える。
考える、私は。
でもきっと、それを考えない、考えないで生きていく方が良いじゃないか、という人もいる。わざわざ大海に出ようとしなければ、その湖で平和に暮らせるのかもしれない。

どちらの人間になるか、自分で決められるタイミングがあるのなら、ラッキーじゃないかな?

私は、もう選ぶという感覚はなくて、自然とこう生きていたし、自然とこうなっていた。
振り返れば確かにターニングポイントらしき点は見つけられるけれども、どちらかと言えば日々が迷いと決心の連続の中で、もはやそれが当たり前になっている。

モヤモヤしている時も、よーしと腕まくりをする時も、同じように私自身であって
「大変だね」「可哀想に」「何か手伝おうか」
などと声をかけて頂いても、これもそれも私なのだ。大変でもなんでもないのだ。

苦手だ。

人の迷いに介入しようとする人が。

いや、ごめんなさい。
中には介入されたい人もいるだろう。
悪気のない行いでもあろう。

でも何というか、私にとってはそれの一切は実はどうでも良くて。迷いの一切は実は問題では無くて。
次の一手を決めるまでのアイドリングで、そっとしておいて大丈夫だったりする。自ずから、何か動き出すと思うから。

そういいながら、時に誰かに壁打ちしてもらったり、ワンワンと泣き言を喚いたりもする。
優しい人に相手してもらう。
でも、大丈夫。私多分すぐに自分で折りあうことが出来ちゃったりするから。

「また言ってら〜」と流してもらっていい。

だけど、これまでそんなふうにしてこなかった人が、そのような状況で狼狽えるというのも、なかなか動き出せないというのも、分かる。

分かるから、こう考えてみたら?なんて言ってしまう時がある。

だけど、もはやそれさえも、個々人の自由なんじゃないかと心の底では思っている。

なかなか、人間は難しい。
最終的には自分で決めるしかないことだけは、何となく見えている。

だから余計に難しい。

彼も、彼も、
自分が楽しく生きられる道が何なのかを、また考えていくんだろう。

私も手を貸してあげたいと思うけれど、
いいや、やっぱり本人が何かに気がつくまで、少しでも何か掴むまでは、見守る。

流石に、場数をこなしてる人はやっぱり理解も早い。
やってみたらいいのにと思うことは沢山出てくる。
あとは、どこからはじめるのか決めてみてほしい。私はそれに乗っかる形でうまいことやろう。きっと私にもいいことが起きそう。

新宿で深夜24時に少しゆっくり話してあったかいもの食べたい時は、24時間の磯丸水産がちょうどいいことが再認識された。

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