『はまなす』

 むかしむかし、枦の谷のヒクイザルの長老がお天道さまの産声の響きをまだはっきりと思い出せたくらいのむかし、山はその横腹をぶるぶるとふるわせて、おおきな女の赤ん坊を産んだ。赤ん坊はそれはそれはおおきな声で泣いたので、木々の枝でうとうとしていた鳥たちが、わあっと一斉に飛び立った。赤ん坊の涙は川になり、下生えを押し流して川を作った。

 山は、その見えない手で、木々に絡まるツタを集め、もしゃもしゃの髪を赤ん坊に与えた。イノシシの母親は、赤ん坊に乳を分け与え、サルたちは甘い果実を取ってきてやった。シャクトリムシがあつまって、からだの寸法をあちこちはかり、ハキリムシが色とりどりの葉を使って、赤ん坊の服をこしらえた。

 3日と3晩が経ったころ、にょっきり伸びた太い足で、すっくとむすめは立ち上がった。ツタの髪に葉っぱの服。ずしんずしんと足を踏み出すたびに、からだのあちこちからムシたちがぽろぽろとこぼれ落ち、手にはイノシシをむんずと握ったまま、むすめはどんどん山をくだった。

 どこへいくのか、と山は問うた。
 うみにいくのだ、とむすめは答えた。

 むすめは途中でイノシシを放し、ムシたちをすっかり払い落として、海へと向かった。海からは真っ黒な海藻の髪をした若者が、まっすぐにむすめの方にやってきて、フジツボだらけの長い腕を差し出した。むすめが若者の手を取ると、頭のツタがうわっと伸びて、桃色や山吹色の花をたくさん咲かせた。

 むすめと若者はそのまま西に歩いて行って、戻らなかった。ふたりが歩いたあとには、ハマナスが茂って花を咲かせた。山はただそこに居ることしかできない。山はいなくなったむすめを想い、悲しみのあまり煙を吹いた。むすめをうばった青年をにくみ、熱い岩を吐き、裾野一面に炎が拡がった。

 その燃えた跡に畑を作ったのがおまえのおじいちゃんだよ。さあ、もうおやすみ。明日また、凧を揚げに行こうか。明日はきっと、山からの風がよーく吹くよ。

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