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後悔と感謝

療養病院に入院していた義母が6月4日に亡くなりました。
葬儀からちょうど10日たち、気持ちの整理としてここに残します。

義母は5年前、膝の手術をきっかけにせん妄状態になり、リハビリも進まず歩けない体になりました。
その年に義父が亡くなり、その後はショートステイにお世話になりながら度々入院や月2の通院。

療養病院に入院したのは1年前。
低血糖症で近くの病院に運ばれ、症状は3日ほどで回復しましたが、口から食事をすると誤嚥してしまうため施設には戻れず、療養病院に移りました。

最初は経管栄養を取りながら、嚥下食の茶碗蒸しをリハビリでたまに口にしていましたが、しばらくすると発熱や嘔吐が続き、早い段階で高カロリー輸液を中心静脈カテーテルで投与することに。

笑顔も見られて、看護師さんたちに家族のことや昔の話をするほど元気になってきていたのに、3月頃から体力が低下。
高カロリー輸液に耐えられなくなり維持輸液に変更してからは徐々に衰弱していき、面会のたびに口数は少なくなっていましたが、意思の疎通はできていました。

亡くなる前の日に「呼吸が不安定なので来てください」と連絡があり、夫と次女と3人で急いで向かいました。
苦しそうだったけど、話しかけると顔を向けようとして、目もしっかり見ようとしてくれていて。
翌日には義弟家族、おば達が駆けつけてくれて、安心したのか夕方に息を引き取りました。

義母が息を引き取った直後に出ていた虹

義母の介護におけるキーパーソンは私でした。

まだ元気だった頃、おしゃべり好きな義母はその日の出来事を毎日私に話してくれていたので、義母の病歴や通っていた病院やもらっていた薬もほぼわかっていました。
このおしゃべりに付き合うことは日課だったので、仕事で疲れている日は右から左へ流すことも多々ありましたが、このことが入院や施設入所の際にとても役に立ちました。
コロナで家族の面会もままならない5年間でしたが、施設入所の間は私が通院の付き添いをしていたので夫よりも私の方が定期的に様子を見ることができました。

介護タクシーで少し遠い病院へ行った日は、受診後に近くのタリーズまで車椅子を押して、お気に入りのホットモカを一緒に飲んでおしゃべり。
お迎えの介護タクシーを待つ間だけの貴重な時間。

義母は糖尿病も患っていて施設での食事も制限されていたし、コロナ禍ということもあって施設からは外食はしないようにと言われていたので、「どこかでお昼を食べて帰ろう」という義母に「ごめんね」というしかなかったんだけど、待ち時間にコーヒー飲むくらいならいいよね?って(一応施設に確認はとって)。
この時間をとても楽しみにしてくれてました。


夫と付き合い始めた頃。
義父母のもとで長女を産み、子供達を連れてよく遊びに行ったこと。
同居してからのこと。
介護が始まってからのこと。
いいことも悪いことも、思い出はたくさんありすぎて。

亡くなった後、義母の日記(2011〜2019.6)が出てきました。
家族のこと、病気のこと、昔の思い出、友達とのこと。

日記の期間は、私が義父母への小さなストレスが積み重なって何も言わずに家出した頃も含まれていましたが、その時の記載はなく。
1週間ほど日が開いて書き出した内容には、「とても信頼していたのに」と落胆して、「ひどい人間だったのか」「気持ちがわからない」と気持ちを綴っていました。
1ヶ月くらい口もきかない生活だったので、すごく苦しかったんだと思います。
そんな想いをさせたのに、周囲には「いい嫁」と話し、この5年間は、会えば必ず「ありがとう」「いつも悪いね」と言ってくれていました。

今は後悔ばかりが先に立ってしまいます。
一緒に暮らしていて、なぜあの時応えてあげられなかったんだろう、もっとできることはあったはず、とか、もっと一緒に出かければ良かった、とか、自分の気持ちをまっすぐ伝えていたら困惑させることはなかったのに、とか。
キーパーソンとして私の選択は間違ってたんじゃないか、一度でも家に帰してあげられたんじゃないか、コーヒーだけじゃなくて1回くらい一緒にお昼を食べても良かったんじゃないか、とか。
「やらなかった後悔」は義母を思い出すたび胸をチクチクさせるのでしょう。

義父母のおかげで今の私がいます。
いろいろ、本当にいろんなことがありましたが、その全てて強くなれた気がしています。
その感謝を生きている間に伝えられなかったのが1番悔やまれますが、後悔を認め、感謝の想いをもって前に進んでいこうと思っています。

あの世で、ふたりで、時々ケンカしながら仲良く暮らしてね。

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