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「文学者」を名乗るまで

実は病気をしたあとから、わたしはある程度確信を持って、自分に「歌人」という肩書だけではなく、「文学者」という肩書を書き足すことにした。まあ、公式に書くと「なにを言っているんだ」となるので書いてはいないけど、「短歌を書いたり文章を書いたりする」という自己紹介のなかに、若干その含意がある。

恐ろしいことだけど、なにか「こころの病気のせい」で具合が悪かったときには、「文を読み解く」能力も一緒にさがった。本当に調子の悪いときは、「短歌9年目の自分」のほうが「短歌をはじめてすぐの自分」より能力が下がっていたような実感がある。

うちにある膨大な哲学書はついに日の目をみることもなく生活困窮で売りに出された。手に入るものは取り返しているけど、脱構築関係の本とか、フォルマリズム関係の本で手に入らない本はもう再入手できない。

働いている人にはほんとに申し訳ないけど、「働いている状態」よりも「寝ていたり本を読んでいる状態」の人のほうが遥かに価値がある人だって稀にいるのである。

自分を安易に肯定するな、と言われそうだが、文学がもつ力を舐めてはいけない。審美眼はほんとうに存在するし、タイトルを読んだだけでどんな本かわかるというのも本当なのだ。もちろん、何もしなくてもそんな神通力が身につくはずもなく、いい本をいっぱい読むとそういう能力が身につくようになる、というほかないけれど。

文学部の成立


日本では「文学」が担う範囲が途方もなく広い。文学部の成立は戦前の帝大に遡るけど、そのなかで取り急ぎ東京帝大に設置された5科のなかに、しっかり「文科」という言い方で、文学部が入っている。

オリジナルの5学部は、理系の3科が理学部、工学部、医学部。文系は法学部、そして文学部だった。「文学部」以外は、どれも「西洋の学問を取り入れるため」に整備したから、それぞれの「卒業後の進路」もはっきり見えていた。理・工学部はそれぞれ科学者・技術者に、医学部は医師に、法学部は法曹家というより、主に官僚になった。

ところが文学部というのは卒業して何になるかがはっきり見えない。教師は師範学校卒業者がいるので、そこに大卒を充てるのがもったいない。志望者も少なくて、設立当初から人集めが大変だったらしい。

京都帝大にもう一個文科(文学部)を作るという話になったとき、カリキュラムの整備が遅れたり、人集めに難儀している東京の様子を見て、はっきりと「不要不急の件」と書かれてしまう。文学部不要論は後の時代から起きたように言われているが、実は「文学が何の役に立つか」という問いは、むしろ設立した当時からの歴史的な宿命だったのである。

実際、真面目に文学をやろうとすると4年では足りない。日本文学・国文学は特に、外国で研究している人間が少ないという事情のため、やはり自分の国の研究が一番進んでいるのだろう。英仏独など外国文学の文学部では「語学習得」が大変なのだろうけど、国文学は読む前に「異本」といって異なる版の本が多すぎるから、どの版(バージョン)で読むかを決めるのも一苦労になる。

明治以前は印刷技術がないので、本を複製するのは全て筆写(手書き)である。オリジナルとコピーという概念もあまりない。写した人がメモを残したり、勝手に書き換えたりするので、〇〇本〇〇系統みたいなのが出来たりする。これを整理するのは、西洋で言う書誌学(ビブリオグラフィー)・文献学に属する領域で、これは基本になる。

さらに、近代文学だからといって「現代日本語」以外の語学をやらなくていいということはない。われわれのいま話している「現代日本語」は明治期に出来たものだが、この時代こそ、一番「文」の種類が豊富だった。

和漢洋とよく言うけど、これを最初に言い出したのはおそらく明治期の文学者だと思う。和文(いまの古文)、漢文(今やらなくなった?)さらに現代文はない(彼らが作った)ので、英仏露独のいずれかの語学という事になり、これを和漢洋という。

少なくとも研究する側は、これらの三つの種類の「文」がよめないと話にならない。わたしは和文も漢文も苦手だったから、一年生のときから半泣きで正岡子規を読んでいた。かろうじて英語辞書で古文のニュアンスの違いを把握していたこともある。

さらに研究対象は「文学」で、竹取や源氏なんて踏まえているのは当然なんだけど、それ以外に哲学も入ってきているし、歴史もやっていた。

だから和漢洋、哲文史をすべて含むと本来の文学に意味合いが近づくが、これを聞くとおそらく多くの学生が、やりたくなくなると思う。文学理論的なものはそれこそ海外の文献まで(さすがに翻訳だが)読まなければいけないし、哲学も当然読む。歴史は詳しくて当たり前。それを前提に「小説を中心にした近代文学」をやっとよむのだから、あきらかにオーバーワークだ。相当国語と社会と英語が得意な人が「なんとか4年間耐えられる」レベルかもしれない。

しかもうちの大学、ふつうに単位がとれないと「落とされる」。1年生のときにまちがって単位を落とすと、2年生のとき授業の量自体が倍くらいに増えて、とりきれずに中退してしまう人もいた。就職は保証しないけど、勉強はたくさんしなければならない。しかし周囲からは「何のためにやってんの」と言われる。愚痴のようだが、ただの説明である。

要するにわたしは、多くの人にわかりやすいことばでいま、現代文の文章を選んで書いているつもりではあるが、実際の文学研究は「意味のわからない文章を読む」体験が圧倒的に多い。そういうもろもろ意味がわからない西洋の文、漢文、古文をわかりやすく置き換えるのも、明治期の文学に与えられた役割であった。(こういう仕事は、評釈や翻訳という言い方で文学者の仕事になった。これらは、明治期は実作者が兼任していた。いま文学は分業制だけど、当時の知識人の仕事量はちょっと想像を絶していた。)

どの学問もそうだけど、きちんとやるのは大変なことなのだ。前も書いたけど、父親はとにかく「大学で勉強しろ」と行って学費を全額出したうえで月15万円の仕送りをしてくれたので、バイトをする必要がなかった。期待には答えなければならない。

あらゆる条件が揃って、「大学生活で学問をおろそかにしない自分」が出来上がったのである。

文章について


随筆とか文芸批評が、多くの人に「考える機会」を提供した日本語の批評を日本の文の基本として読むと、多くの哲学や社会学の、専門用語満載の文章が奇異に見える。

日本で文学をやる人間は、作家も批評家も、これだけの量の種類の文を読みながら、おそらく多くの書き手にとって「読者にわかるように書く」ことは至上命題だった。それが言文一致以降の日本文学の宿命であるかのように。小林秀雄、江藤淳から、柄谷行人まで、日本のクリティークは、「文章力」が命だった。

現代、一番それを言いやすいのはゲンロンの東浩紀だろう。初期の『ソルジェニーツィン試論』とか『存在論的、郵便的』を読んだ人が、いまのわかりやすくて読みやすい東浩紀の文章をあまり想像出来ないと思うけど、わかりやすく文体(スタイル)を変えるというのは実存の問題としても、商業的にも正統なのである。それは「読者」が自分の本を買ってくれるのが前提の、日本の文芸批評家・文学者の宿命なのだ。

大学が給料を払ってくれるなら、多少文が下手でもなんとかなる。吉本隆明も柄谷行人も本質的には研究者ではなく、あくまで文章を売る「作家」だった。その文が、随筆なのか小説なのかという違いしかなく、散文は常に魅力的である必要があった。

そして年を経て、そのような文学の「毒」に当てられた私のような文章書きが、かれらの物真似から出発したのだから、「随筆」や「記」の魅力も、案外馬鹿にしたものではないかもしれない。




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