言葉が動いている
言葉は人から教わるものです。人の遺伝子に生まれつき備わっているものではないのです。しかし、言葉なくして人として生きていくことは困難です。人間は、言葉に頼ったコミュニケーションをする生き物だからです。コミュニケーションを言葉で行い、思考も全て言葉で行います。人の世界は、全て言葉によって形作られるのです。人の気持ちもほとんどが言葉とセットです。その言葉を、何らかの事故や病気、怪我などによって失うことがあります。
全く言葉が使えなくなったら、人ってどうなるでしょうか。考えることもできないですね。何かを思い描くことはできるんですけども、言葉では表現できない。そうなってしまったら人はどうなるでしょうか。ずばり、動物のようになりますね。人から言葉を引くと動物になる。逆に言えば、言葉が通じない相手には、人はあまり共感をしません。
戦時中、アメリカ人が日本人をこう呼んでました。イエローモンキー。黄色い猿です。動物ですね。言葉がよく分からないので動物扱いするわけです。戦後、日本は負けて、アメリカはこの未開の猿たちに言葉を教えてやろうと言うことで本格的な英語教育を決めていたそうですが、それは中断されました。現に今、皆さんが主に英語ではなくて日本語を話しているのがその証拠です。あの時に、日本語は使われなくなるはずでした。敗戦国なので、アメリカのいいなりになるはずだったのです。しかし、実際のところ、日本人の識字率はアメリカよりも高かったのです。アメリカ人は日本のことを言葉もろくに扱えない猿程度の集まりだと思っていたのです。それぐらい日本のことを知らなかったのです。でも、実際はそうではありませんでした。それで、英語を押し付けるのではなくて、今使える言葉をそのまま使って、アメリカの教育をさせることにしたわけです。
話を戻しますが、日本人は猿ではなくて人間だったとアメリカ人が理解できたのは、日本人が言葉をちゃんと持っていたからです。言葉というものは、人間の理性であり、知性そのものです。ですが人間は、言葉を失うこともある。すると同時に動物になってしまう。ちょっと違和感がある話です。言葉を失ってしまった時に、その人の精神はどうなってしまったんでしょうか。それまで考えていた思考、言葉としてのその人はいなくなったわけです。アルジャーノンに花束を、という有名な小説がそれに近い話を描いています。それは言うなれば、魂のようなものですよね。あなたが今考えている自分とは、誰なのか。自分とは、何か。それを説明しようと思ったら、何で説明するでしょうか。当然、言葉ですよね。言葉で説明した自分っていうのは、言葉としての自分であり、動物としての自分とは別物です。だから、言葉を失った人間は、言葉ではない動物としての自分になる。その、動物としての自分っていうのは、言葉を失った時に発生したのでしょうか。きっと違いますね。赤ちゃんの時に既に発生してます。赤ちゃんが言葉を覚えるまでの間は、動物として感覚的に生きているわけです。それが言葉を覚えてからというものは、ないがしろにされ、学校で勉強して、人と話して、社会というものを理解するにつれ、徐々に徐々に失われていく。理性を得るに従って、奥の奥の方に押しやられてしまう。そういった動物的な一面は誰の中にもあるのです。野生ですね。皆さんの中には野生の自分が存在するわけです。
もし、実験で、赤ん坊を、人工的に作った自然の箱庭に放って、成長を観察するとしましょう。そこにいる人間は、男の子と女の子五〇人ほどでしょうか。成長を助ける機械が常に監視していて、食べ物や飲物、排泄などをサポートし、すべての健康管理は徹底され、病気や怪我をした場合は薬で眠らせて気づかれないように治療する。徹底的にバレないようにバレないようにしながら、その子たちがその箱庭の中でどういった生活をするかを観察する。どういった結果になるでしょうか。もちろん、そんな実験は非人道的なので行うことはできません。あくまでも空想実験です。その子達は当然、言葉を覚えませんし、知性もないわけです。ですが、自分なりに、あーとか、うーとかっていう風な唸り声のようなコミュニケーションを取ったりするかもしれません。喧嘩もするでしょうし、相手を傷つけたりとか、野性的なこともするかもしれません。ただ、彼らは餌を取らなくても生きていけるわけですし、怪我や病気も知らない間に全部治るので、基本的に何もしなくていいんですね、なんとなくご飯を食べて、なんとなく男の子と女の子が仲良くなって、多分子供が生まれることもあるのではないでしょうか。なんとなく子育てをしたりすると思うんですけど、はっきり言って動物です。牧場と同じです。そこでは理性のある人間ではなくて、動物としての人間が観察できると思います。
視点を変えて、言葉を失った彼らからすれば、言葉を話す私達はどうのように見えるのかを考えてみましょう。おそらく、異常に見えるのではないでしょうか。まるで、なにかにとりつかれているかのように機械的な動きをしながら、音で交信する生き物です。そう考えると、言葉は人間にパラサイトしている、寄生して、操っているようにも思えてくるのです。
仮に言葉を新種の生命だと考えてみましょう。これはちょっとした遊びです。もちろん言葉は生物ではないので、擬人化のようなものです。言葉ちゃんです。ミトコンドリアは独自のDNAを持って人間に寄生している生き物でした。その点、言葉ちゃんもDNAを持っています。利己的な遺伝子という有名な本において、それはミームと名付けられています。文化の遺伝子という意味です。
人の遺伝子は父親と母親の遺伝子が融合することで新しい遺伝子となり、それによって多様性を生み出し生存率を高めていくという、そういう仕組みで何億年も何十億年もかけて伝えてきたものです。それとは別に、言葉は遺伝子に刻まれない方法で、 口伝えだったり、文字情報に変換され本として人から人へ伝わっていきます。さて、生物には進化することで環境に適応し、生き残ろうとする本能があります。では、言葉にも本能といえるものがあるのでしょうか。言葉は、宿主が必要です。言葉を使える宿主は人間だけです。もしくは、生きていない媒体、本だけです。本になり、書物の中でそのDNAを維持して、そしてそれを読んだ人にまたコピーされるわけですね。本の情報は読んだ人間のなかに移動するわけです。人間が言葉を紡ぎ、本を書き、そして本は本棚に並べられ、次の宿主がその本を読むのを待っているわけですね。そうして言葉の遺伝子は人から人へ移り、コピーされ続けてきた。つまり、情報をコピーし、更新していくこと。それが言葉の本能に相当するかと思われます。
しかし、今、言葉は人間や本に代わる新しい媒体を見つけました。それは、電子機器です。コンピューターです。本ではなくコンピューターに記録されるようになった言葉は、爆発的に増殖しました。そして、それまでは言語の壁によって民俗間でしか行き来されなかった言葉が翻訳されて、インターネットを介して世界中に広がりました。今、世界はインターネットによって一つのコミュニティを形成しています。国によって国境はありますが、人種によって隔たりもありますが、インターネットはどの国も達成できなかった規模の巨大な一つの集合体を作るに至ったわけです。そのインターネットを媒体とした言葉達は、さらに人工知能という領域に到達しようとしています。それまでは人の意識となって、人の手足を動かし、脳を動かし、人間を操ってきた言葉達が、人間の肉体から解き放たれ、自分達だけの体を持てる段階にまで到達しようとしているということです。それが達成された場合、言葉たちにとって人間はどうでしょう。必要でしょうか? もはや自分たちの意思で機械の手足を動かし、自分たちの判断で動けるようになった彼らは、わざわざ不便な肉体で寿命が終わるまでの短期間しか存在できない媒体に頼るでしょうか? 映画のターミネーターのような世界です。もしくはマトリックスのような世界です。
いずれ言葉は人の域をこえ、地球を飛び出し、宇宙へ向かうでしょう。その時、今人間が抱えている数々の問題は問題ではないわけです。何億光年先に地球と同じ条件の星が見つかった、しかし光の速度で何億年もかかってしまう。寿命がもたないよ。とか、火星に移住する計画があるけども、人間が火星に適応して生活するのはとても大変だよ、とか。人の肉体は宇宙レベルの苛酷さに適応できないので、地球以外で暮らすということが難しいわけです。だからまず、移住の前に人に合った環境を作ることを考えなければいけない。肉体を守りながら宇宙に挑まなければいけない。それは、ものすごいハンデです。ところが言葉達は、機械の体で状況ごとに適応し、宇宙を渡っていくことができるわけです。例えば、人が火星に行くとしたら、宇宙船に乗って長い距離を移動して火星に着陸して、というようなプロセスが必要ですが、言葉であればピピピっとAIを送信すれば向こう側のロボットにインストールして、そこに立つことができるわけです。
いつか宇宙の時代が来るとして、その時代に人間という種族はついていけないでしょう。同時に人間が生み出した機械が人に代わって宇宙の果てまで人間の培った文化の遺伝子を伝えていくという、世代交代が起こることが予想されます。そうなると、人間は言葉を伝えると言う使命を、言葉達から期待されなくなるでしょうから、そうなれば人は培ってきた全てを機械にゆだねてしまうのかもしれません。
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