つらいことを忘れたままじゃだめなの?
つらかったことをつらいときに思い出してもどうしようもないから、元気がないときは忘れてしまっていいんだけど、忘れたままだと、現実逃避から抜け出せない。いつか、自分と向き合えるようにしたいね。
・わたしは、その時々の自分が十分に向き合ってきたことを認めてあげたい
・その時々の自分は、その時の知恵をフルに絞り選択し行動しようとした
・今どうにかできることじゃないし、その時の自分が精一杯向き合ったから、済んだこと
・現実逃避というよりも、 人の死以外は、無駄な時間と無駄な記憶だと思ってて。 それがないほうがスムーズに生きれたかな。それと向き合うために生まれたのかもしれませんけど
・肉体が忘れても魂は忘れないと思うし。肉体は短期記憶なんだと思う。
以上の5つにポイントを絞ってお返事したいと思います。
まず、ぬこまるさんの考え方として
「肉体が忘れても魂は忘れない」
というのがありますね。
これがあるのであれば、私の言った
「いつか、自分と向き合えるようにしたいね。」は、死んだあと、
魂になったときに、自分と向き合えるようにしたいね、と解釈できます。
私が、いつか、と書いたのは、実は「目指しはするけど、生きているうちは難しいだろうな」というニュアンスがあります。それでも、いつか、を目指して生きることが、現実逃避にならない生き方、だと思うんですよ。というより、肉体で生きるっていうのは苦しいから、基本的に「現実逃避」が人生なのではないかな、とも思いますね。
ぬこまるさんは、自覚されているとは思いますが、独特な世界観を持っていますね。でも、言葉も意識もはっきりしていて、意見も筋が通っているように感じます。書かれた文章を読んでみて、直感的に、何が正しくて何がおかしいかを判断出来ている、と感じる文章です。しかし、矛盾がないわけではないですね。自分で何がおかしいかを自覚出来ていない部分があると思います。それを、一つ一つ紐解いて、矛盾している、と指摘する方向でお返事するのが直球の答えなんですけど、私としては、それをして何になるのか、という疑問があって、悩みました。ぬこまるさんが言うように「私は十分自分と向き合って知恵をフルに絞り選択した」という結論は揺るがないでしょうし、それは本当に十分だったんですか? と不信を煽るような真似をしても、いじわるにしかならないんですよね。
今回のお話の核心は
「自分は自分と向き合ってきた」と結論づけている自分と
「つらいことを思い出したくない」という自分がいて
これが、矛盾なんですよ。でも仕方ない問題です。
ぬこまるさんは
「知恵をフルに絞り選択し行動しようとした」
と書いてますけど、
選択した、まではいいですが、
行動しようとした、
というのが、なんだか中途半端ですよね。
行動しようとしたのか、ちゃんと出来たのか。
おそらく、出来なかったのでしょう。
でも、そのときの自分では、それがフルだった、やるだけのことはやった、それは自分で自分を認めてあげたい、と考えているから、出来なかったけどやりきったことにしたい、終わりにしたい、という考え方になってしまっている印象を受けました。
だから「いつか自分と向き合えるようにしたいね」という言葉にモヤモヤしてしまったのではないでしょうか。終わったことをほじくりかえされたような気分になってしまったのかな、と思います。
あと今回、一番のポイントは
「人の死以外は、無駄な時間と無駄な記憶だと思ってて。 それがないほうがスムーズに生きれたかな。」
というところなんですが、これは難解でした。
私もそういう考え方なので、理解は出来るんですよ。
でも、死以外?というのは何でしょうね。死だけは無駄とは言えない考え方、これはたぶん、個人的なトラウマのような、説明にならない「揺るがない価値観」になっている気がしましたね。答えは解りませんけど、この世の全てが魂が味わう「短期記憶」であれば、死も重大にならないと思うんですけどね。どういうことなんでしょう。
むしろ、生きるということは、何かにこだわることでもあるから、そういう「死」を特別視して避ける考え方はすごく大事だと思います。
もし「死んでもいい」という答えをはっきり出してしまったら、人は生きていられないと思います。死ぬのが正解であれば、つべこべ言ってないですぐに死んだ方が「自分の考えに則ってまっすぐ生きてる」と言えるはずです。悩む理由を見つける方が「勇気がない」のかもしれないし「頭がわるい」のかも知れない。けど、生きるには、そういう「死を恐れる弱さ」が必要になってしまうんですよね。だから「いつか、自分と向き合えるようにしたいね。」という言葉になるんです。
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