9月25~10月31 メモ

迷いがあるけど信用されたいという矛盾があるよね。
失敗しないという決意は必要。
弱気そのものを悩みとして相談しても他人では助けられない。
勇気づけることなら、出来るけど。
過去の自分の出した結果がないと、なかなか自信に根拠は持てないものですが、どうしようもないときほど、自信が必要になる。
そのときは、根拠のない自信を持つしかない。

水と同様に、火にも微かな粘着力がある?
粘着力というより、水が水とくっつきたがるように、火も火とくっつきたがっているように見える。
人の中の水や火が、他人の中の水や火を求めて、引力を生むのかな。

周回遅れは目線が合う
老人と子どものように

バガボンドで武蔵が、命をかけた決戦の前に震え上がっていて、そのままうっかり寝てしまい、朝日で目が覚めて、俺は生き延びたのか、と大笑いしたあと、まあ死んだらそのときはそのときだと清々しく決戦に臨むシーンがあって、そのメンタルを獲得した武蔵がめちゃめちゃ強かったのが印象に残っている。
生きてるだけで丸儲け、という話。

全ての物質は、宇宙が始まったころからの使いまわし

ミトコンドリアの面白さは全員と共有したい。
まず、全員の細胞の中にある。酸素をエネルギーに変えるもの。これがないと話にならない。人間以外の生き物、植物にもある。酸素を使うのはミトコンドリアだから。ミトコンドリアからエネルギーを貰う。ミトコンドリアは生物で、独自のDNAを持っている。
太古の昔、人間の祖先はミトコンドリアと出会った。ミトコンドリアは酸素からエネルギーを作れるが使い道がなかった。人間の祖先はエネルギーは作れないが使い道があった。二つは必然的に手を組んだ。生命は多様化し、その一つが人間になる。ミトコンドリアは形を変えずにずっとミトコンドリアのまま。
植物はミトコンドリアのような別の生き物と出会った。葉緑体も独自のDNAを持つ生き物。葉緑体は二酸化炭素と太陽光を混ぜてエネルギーを作り出せるが使い道がなかった。植物の祖先は葉緑体と手を組んだ。結果、ミトコンドリアと葉緑体からエネルギーを得られるようになり、移動する必要がなくなった。

生物が偶然発生したということは、目的を持たない、ということ。それは、車の概念がなく乗る人もいないところに意味もなく車が出来上がるようなもの。可能性がほんの少しでもあれば、あとは時間の問題で実現する確率は100%に達する、とは言うけど、ナスを植えてカボチャは出来ないよ。
ウイルスが突然変異して偶然何かの生き物の機能に噛み合って増殖することはある。では、そのウイルスは目的もなく繁殖するのか、ということで。その行為に目的はない、とも言えるけど、機能を果たそうとする方向性はどうしたって持っている。増える、という前提となる基本設定がなければ増えない。
生命は水中で偶然発生したと考えられるけど、それは水流あってこそ、熱あってこそ、原子あってこそでしょう。水はどうして流れるのか。熱はどうして発生するのか。原子はどうして存在するのか。全てが偶然働いているでは説明がつかない。動く理由はないけど動くのは当たり前だから動く、で思考停止。

疑心暗鬼にならない為には、信じる以外にないのかな
自分が正しいという思い込みがあるなら自覚したい

人間が変わる為には、これは変えない、と決めることが必要になると思う。自分が自分らしくなれるものは、手放さないようにしたい。
わかりづらいけど。
全部一度に変えようとすると、自分を見失って、おかしくなってしまうので、軸は必要になる。

自分が信頼している人に信頼されている人ばかり好きになるその性格は、問題なんじゃないかな
信頼している人の態度で自分の意見をコロコロ変えて、手のひら返して他人になるんだよね、何か理由つけて
偽善者ってそういう人

知人が、転校初日に仲良くなった人がいじめられっこで、それが原因で嫌われものに属してしまった話を、思い出すのもつらそうに語っていたことがあった。誰かに好かれたからという理由で人から嫌われることがある。
それは、好かれた人が悪いのかね。
その人は軽くコミュ障だったけど、これがトラウマでコミュ障になったのか、コミュ障なのを他人のせいにしていたのかは、私にはわからない。

私はコミュ障を工夫でどうにかしてきたから、化けの皮が剥がれるとあっけないのはいつものことで、結局いつかは嫌われると諦めている部分がある。
どこまでいっても、人間ごっこだ。
人間になりたくて人間のことばかり考えてきた妖怪みたいな気分で生きている。

誤解をさせて仲良くなって
仲良くなったら誤解をとく
このテクニックの名前が知りたい

迷ったら行動にも迷いが出る。
それでも人は、考え続けて前に進む。

こうだ!と思っていることが全然違っていたり、知っているつもりでも、本当に少しでしかない。
それに気づけたときに、はっとしますね。
視野が広くなり、自分の小ささに気づくような。
常に、その感覚を目指しながら前に進んでいきたいと思っています

借りをつくることが悪いと学んだ人の固定観念の問題。
借りを作らなければお返しが出来ないので対等が成り立たない。
その為、人に恩返しで何かをして貰うのではなく、お金で何かをさせる上から目線になる。

嫉妬が愛から生じると思っている人は、相手の愛を確かめようとして嫉妬させようとする。
それは愛ではなくて、独占欲。
せっかく愛されていたのに、独占欲が裏目に出たせいで、嫌われることがある。

あるときは大して大事に思っていないのに、なくなると探し続けてしまうもの

天空の城ラピュタ
ムスカ目線
1、親が残した資料でラピュタに憧れる
2、ラピュタに到達する手段を得る為に出世する
3、正当な王家の子孫(シータ)を見つけたので夫婦になって自分が王様になると決める
4、シータを移送中に海賊に襲われる
5、シータに瓶で殴られ気絶する
6、シータを探しにいったら妙な少年に邪魔をされる
7、シータを回収。少年に手切れ金を渡して解決する。
8、ロボットが動き出す。シータ行方不明になる。
9、飛行石を手に入れる。これでやっとラピュタに到達できる。
10、なぜか雲が晴れてラピュタにあっさりと到達する。
11、海賊がいたので捕まえる。
12、なぜかシータも来ていたので捕まえる。
13、シータが逃げる。
14、妙な少年が再び現れる。
15、バルス

いつでも出来ることは案外やらなくなる。
やらなくてもイメージで満足出来てしまうことはやる必要を感じなくなる。
実際にやらないと味わえない感動がある。
いつでも出来るけどやらない。それは無意味ではなく、むしろ最高に丁度いい状態。
だからこそ、感覚を忘れそうになっていると思ったら即座にやることを、自分のルールとして持っておきたい。
そうでないと、宝の持ち腐れになる。

率先して動く必要はないけど、いざというときにバッと動けるように腰は少し浮かしておく。
心の準備も立派な準備。

たまに思う。
みんなが忘れていそうなことでいまだにフラッシュバックするのって、意味あるのかなって。
自分だけはずっと忘れない。

映画のBGMは観客にしか聞こえていない音で、登場人物には音楽は聴こえていない。それは当たり前だけど少し不思議なこと。

天性の不穏分子が上手い生き方を考えるのが哲学

魔女の宅急便。
キキが自転車を浮かさなければ2人とも死んでいた。
自転車を浮かせてしまったので箒を浮かせられなくなった。
あの物語が上手いのは、
自転車がプロペラで飛んだようにも見えるし、キキの心の問題で飛べなくなったようにも見えること。
原因が思い当たらないから悩んでいるが、話はとてもシンプル。
魔女は道具と契約することをキキはよくわかっていなかった。
だからキキの母は新しい箒を使わせなかった。

攻殻機動隊。
序盤で少佐が
「生理なんだよ」と言うのはサイボーグならではのジョークだが、少佐の脳は生身なので、何らかの不調は実際に感じているのかもしれない。
心身の不一致がテーマの作品であることを、最初に明示した形になっていた。

新世紀エヴァンゲリオン。
エヴァは人造人間であり、基本的に女性。
人間を遺伝子操作で巨大にしたモンスターで、そこに母親の魂が溶け込んでいて、娘や息子が搭乗することでシンクロする。
エヴァの狂暴性は野生動物としてのメスの本能で、子どもを守ろうとする母性本能でもある。
使徒はアダム由来で、基本的に男性と見ることが出来る。エヴァンゲリオンは男性から見た女性の恐ろしさを具現化したようなもので、男性は女性の強さに振り回されて、抗うんだけど、最終的に負けてしまう、というのが基本的な流れ。
生物的に、結局は子どもを生むのは女性なので、女性を軸にして未来は作られていく。生き物の繁栄は女性の強さで成り立つものであり、男性は使い捨て可能な労働力に過ぎない、といった面がある。
男性による女性蔑視や差別の根底にあるのは、女性に力を与えてしまうと男性は立場を失ってしまう、その怖さの裏返しと見ることも出来る。女性も女性で、本当に力を得ると、面倒事が増えてやりたいことが上手く出来なくなって自滅する、ややこしいジレンマを抱えるので、男性に力を持たせておきたい。

能ある鷹は爪を隠す。
これは、昼行灯(昼に灯りを持って歩くような間抜け者)が実は演技で、本当はすごい実力者だった、というような話に使われることわざだけど、ない爪を隠すことで強そうに見せかけるのも現代的には能があると言えるのだろうなと、ふと思う。

人はつい、何かを得ることを目的にしやすいのですが、何かを失わないようにすることは、得ることよりもずっと重要です。
点数をコツコツ稼いでも、一つの大失敗で台無しになるからです。
守りだけでは勝てない。
損失を恐れず攻撃にまわることが正解、という考えも可能です。
しかし、多種多様な生物が、すべて攻撃的ではないように、生き残る方法は一つではありません。
ただ一つ、生き残った者に共通するのは、大事なものを守りきったということです。
失わなかった、ということです。

無料の娯楽は麻薬。
生産性は特に期待出来ないのに、人の時間と活力をそれなりに消耗させ、満足感が高い。
栄養不足だけどお腹いっぱい、みたいな状態を作り出す。

人の住まなくなった家屋がすぐダメになるのは、人の気配がなくなると、振動がなくなって、ホコリや湿気がたまると、菌が増えやすくなり、植物性の建材の分解が始まるから、だろうけど。それらの菌は普段から家にいるもので、人間が生活しながら繁殖を抑制しているから、家が腐っていかない訳だよね。
家の匂いってあるけど、家の空間内が、人の腸内フローラのように、住んでいる人と菌の共存になっていて、熟成、みたいになっているんだろうな。

全ての人に理はあるけど、必ず何かを誤解している
自分の中の誤解は自力では見つけられない、盲点の部分

第一印象が大きい力を持つのは、多くの人が、自分が感じた第一印象は間違っていない、と考えたがるから

何かが出来ないことは、出来る何かを、より強くします。
何かをしないことで、力は出来ることに注がれます。
決断とは、自らに可能なことを、意思の力で断つと決めることです。
そうすることで、やると決めたことに専念する決意になります。
可能性がないことを諦めるのは、決断したのではなく、どうしようもないと認めることです。
そこに決意は、あるようでありません。

人によりますが、
女性は誰かの為になるほど力を発揮しやすく、男性は自分が決めたことを貫くほど力を発揮しやすい
そんな傾向があって、
その結果
女性は集団に流されやすく、
男性は人の話をきかなくなりやすい。
協調性はいきすぎれば依存になりますし、信念はいきすぎれば頑固になります。
どちらも長所ではあるのですが、意識してコントロール出来ないことが問題になります。

道は人が歩くから出来るもので、あまり人が通らない道は草木に覆われて消えていく。
戦前の日本の人口は3000万人程ですが、時代を遡る程に人の数は少なくなり、縄文時代は総人口で20万人くらいらしい。
機械もなく人も少ないところでは、草の成長の勢いに人の生活圏が侵食されていき、道が消えていく。
日本では、伝統のある文化を道と呼ぶことがあります。重要な記憶を後世に残そうと、先人の足跡をなぞり、自重で踏み固め、道として保ちます。
道は、近くと遠くを繋ぎたいと望む人々の足跡であり、過去から今へと記憶を繋ぐ為のもの。
頻繁に使われる道は残り、誰も通らなくなった道は途絶えていく。

上から目線で助言をする人は他人事の意識があって、優越感や同情でほどこしをする自分に酔っている場合があります。
そうした無自覚な上から目線は人を馬鹿にしているも同然です。
人を見下せば見下される。
自分が経験した苦しさをあなたには経験して欲しくない。本当の助言はその気持ちが本物。
自分が経験していなくても、苦しんでいる人に優しくすることは出来ます。
そのときに、自分もわかるよ、とわかったふりをするのは嘘つきです。
苦しさはわからないけど苦しんでいるあなたを見るのはつらい、が本心です。
それだけに徹して接すれば、下手に慰めようとして奇妙なことをせずに済みます。
感情の問題はどうでもいいから、揺るぎない堂々とした態度で確実なアドバイスをして欲しいこともあります。
優越感や同情は全く関係なしに、私情を抜きにして的確に助言するのなら、他人を見下しているわけではないので、
悪意のないことに感情的に反感を持っても、わりと仕方がないです。

私は人生で二、三回くらいしか吐いた経験がなくて、吐くことがあまり得意ではありません。
吐くというのは慣れがあって、慣れるとさくさく吐けるようになりますよね。
また、吐く、は心理的なことがスイッチになりやすく、これは飲めない、と決めると、飲んでもすぐに吐いてしまうようになります。
蛙は自分の胃袋を吐き出し水でジャブジャブ洗います。まさに嘔吐のスペシャリストです。
なぜ吐く必要があるのか。
異物を吐き出さないと、病気になったり、死んでしまうことがあるから。
ヤドクガエルは食べた物の中にある毒を皮膚から排泄します。その為ヤドクガエルを触ると人はその毒で死にます。
毒のある生き物は、毒を作るのではなく、吸収した毒を溜め込む性質がある場合が多い。
人間は、色んなものを食べますから、当然、多種多様な毒を体内に取り入れます。全ての野菜には毒があります。犬がたまねぎを食べると中毒になりますが人間は平気です。毒に耐性がある、というより、排毒が上手い。
デトックス、という言葉がありますが、病気にならない為には、毒をあまり取り入れないことと、毒を上手く排出することの両方が重要なんですね。
それで、最初に戻りますが、吐くことは毒を溜めない為の技なんですよね。
愚痴や不満を、毒を吐く、と言いますが、悪い言葉も毒なので吐き出す必要がある。

心の汚れは、やましさです。
疚しさとは良心の咎めのことです。
キレイな心とは良心です。
良心は道徳的な善悪をわきまえ区別し正しく行動しようとする心の働きです。
道徳的な善とは何かを守る為に誰かに罪を被せて責めることです。
自らの行為に自責の念を抱いたものが、心の汚れです。

太陽は東から昇るので、太陽がどこから昇るのか、と気になった人々はひたすら東を目指して旅をして、日本にたどり着く。

へんな話
殴られてもなんともない人はむしろ多少殴って欲しいくらいで、人を気軽に殴る。
猛獣が兄弟に噛みつく程度のじゃれつきで人を殺してしまうことがあるが、そんな感じ。
言葉も、ガンガン言って欲しい人はガンガン言うけど、それがショックで心に傷を負われると加害者になる。
力加減が重要。

よく、カナヘビや虫をひょいと捕まえて手に乗せて歩いて、もとの場所に戻って逃がす、というのをやる。
それによってその生き物が
「なんか、人間の手に乗ってこのあたりを上から眺めたことがあるんだよ。あれは貴重な体験だった」
と遺伝子に記憶して貰いたいな、と思いながらやっている。

型にはまらない人は、型にはまらないという型にはまります。型にはまらないように頑張る型です。
本当に型にはまらない人は、もしいるのならば、全ての型を使いこなしているような場合で、何もかもがハイレベルだと、計測不能になり、型の概念を超越します。

かな
は愛(かな)で
カナヘビは
愛蛇。

金を貸すからうちの商品を買え
という

文系が集まる
理系が集まる
肉体系が集まる
それぞれ行き詰まる
似た者同士だと発想も似てしまって、状況を打破する答えが出ない。
変人のグループでは常識ある人が
まともなグループでは変人が
行き詰まったときに鍵になる

感動は
罪悪感と関係がある
本当は理想を叶えたい
上手く出来ないことへの無力感
誰かのせいにしてしまったり
自分は悪くないと信じたい気持ち
心の奥に隠している罪悪感を
吹き消してくれるものに
人は救われて、感動する
無駄な努力
ずっと騙されていた
良いと思っていたことが間違いだった
信じていた人が嘘つきだった
世の中には取り返しのつかないことがあって、頑張っただけ納得がいかなくなる
呪縛となって今の自分を痛め付ける過去の罪をどうやって慰めればいいのか
せめて誰かには上手くやって欲しいと願う

例えばトロッコ問題で
さあ、どちらを助けるかを選べ
と、
どちらを選んだとしても罪を背負う決断を迫られれば、人は絶望する。
もし、そこに救世主が現れて
大丈夫だ、任せろと
全員を助けてくれたとしたら。
人は感動する。
感動せずにおれない。
その感動の裏には
自分は弱い、という絶望がある。
アメリカのヒーロー
スーパーマンはなぜ生まれたか。
スーパーマンは産業革命で機械に仕事を奪われ絶望した庶民の理想だった。どんな機械にも負けない強い肉体が自分達にあればという願いの形。
バットマンはスーパーマンという理想が人の心に新たな罪悪感を生んだ為、それを掃除する為に生まれた。

緊張は筋肉に力が入ること
動いていないのに力んでしまう
これが何にしても良くない
せめてその力みを何かに使った方がいいので、体を動かすと楽になるのですが、止まるとまた無駄な力みが残ってしまう。
動いていないときにちゃんと体の力みを止める。これが自然と出来る人とそうでない人がいます。
逆に、気を抜きすぎた体はたるみますけどね。

言葉を支配出来ないものは言葉に流される
自覚したら、知らない頃に戻るのではなく、上手くなるしかない

寒くなってきたのでカナヘビが寝っぱなしになってきました。
今日は起きていたので少し遊ぶことに。
部屋に放つと、ぐるっと散歩して、私のところに来て肩まで登って、次はカーテンを登りにいって、落下して、そのまま巣箱に自分で戻って、寝ました。

逃げられないとわかったら、あとは上手くやるしかないのです。

賢い人ほど理路整然と間違える。
計算上でしか考えられず、実際の違和感を見ることが出来ない。
見えない損失に気づかない。
3個100円の物が2個100円になったら、それは値上げなのに、値段が同じだからと損失に気づけない。
食べ物の味が落ちても、含まれている栄養が減っても、損に気づかない。

八百万の信仰はあらゆるものに神がいると感じるところに存在する

飛んでいる生き物の視界は前方に点のようにあって、景色は放射状に流れていく。
トンボの眼は複眼で1~3万にも及ぶが、その映像は合成されて1つに纏められ、恐らくは人の体感する時間より緩やかに流れていく。
プラネタリウムのドーム型の天井に映し出されたような景色で、前は下、後ろは上となる。

やった方がいいことはやるべきだ、やらない方がいいことはやってはいけないという潔癖。
どちらかというと、が、すべき、となって、絶対になってしまう。この流れは、人のやることなすことに必ず発生する。
物事にオンとオフしかなくなった時、初心を思い出せなければ、遊びがなくなり、義務だけ残る。

味覚は不思議。
塩とか、うわしょっぱい、と思っても、少しずつなら美味しいわけで、体が受け付ける。
味は、体が覚えている記憶で、先祖代々、これを食べるといい、という経験則の積み重ねのように思えるけど、一度に食べるのはアウトだけど少しずつならいいよと体が許すのはどういうセキュリティなの

仁王の良さは若さでムキムキなのではなく、老人がムキムキなところだと思う。皮がたるんでめくりあがっている。張りが衰えて血管が浮き上がっている。そんな全身にめいっぱい力を込めて立っている。力を抜いている箇所はどこにもなく指の先から目、髪の毛先に至るまで強張らせる。老人の意地を感じる。

服の中で何かが動いている気がする。嫌な予感がする。掴んでみた。カメムシだった。うわっっと声が出た。
観光先で背中に沢山のカメムシがくっついたときがあって、通りがかりのおばあさんが、あらあらあら、と、取ってあげるわと言って、隣の旦那さんも取ってくれて、すみません、ありがとうございます、と言った、何気ない一コマを思い出した。どんだけカメムシくっついていたんだ。

山を登るとき、景色を見るとか、山頂を目指すとか、目的はあるだろうけど、私は、宝さがしの感覚が強くて、山を登る前に、何かを見つける、と決めて登る。そして動物に遭遇して写真を撮ると、今日はこれだったか、と思う。絵を見ても本を読んでも、常にあるのは、そこに何かを見つける、という意欲で、それは具体的に予想はしない。けど、そこに何かが必ずあって、これだったか、と思う。
自分の中にあるイメージを内観する時も同じ。先入観を持たずに、何かを見つけると決めて、何かを見つける。これか、と思うまで。これは幼い頃に毎日冒険をしていたから出来てしまった癖で、虫を捕まえたり、秘密の場所を見つけたり(下水道や森の中の空洞、廃屋、誰かの秘密基地)、カッコいい石とか誰かの落とし物とか、いつも何かを探していた。それがいつからか古本屋巡りに変わり、面白い物語探しに変わり、なんでもに変わった。生き物を見ればその中に何かを探し、人を見るときも、その人の中に何かを探します。
何かを秘めているものにはセンサーが働きますし、秘めていないものにはセンサーが働きません。
私が気になったものは、必ずそこに何かがあります。誰でもそうだとは思いますが。

自分が崖の下を覗くのは平気だったけど友人が下を覗くのは「やめてー!」と思った。その友人がミスをするとは思わなかったけど。
自分がどうにかなるのは耐えられても、目の前で誰かにどうにかなられるのは耐え難いと思った。
これは想像ではピンとこないことだと思う。
周囲の人の心配に配慮したい。

考えなくても生きていけるけど、考えないとあっという間に時間が過ぎて、気づいた時にはすべてが過去になる。

メンタルがめいっぱいの人同士が助け合うって、普通に無理だから、悲しいね

真理とは。例えば、大きな問題に巻き込まれたときは、誰が悪いかなんて考えている場合ではなくて、どうしたらこの状況を切り抜けられるかを考えるだろう。最優先すべきは目の前の問題をどうするか。自分の生き死に関わることが、本人にとっての真理となる。

さくらももこさんのエッセイに、喉には健康を読み取る器官?があって、飲んだもので体調が変わるという話がありました。
具体的にこれというのはよくわからないのですが、なんとなく、喉ごし、という味覚のようなものがあるし、風邪を引けば喉が腫れたり、たんがつまったりする。
うがいがなんとなく体に良かったり。
喉には感覚器官として何かがあるとは思うんですけど。

人間はふさわしい答えがおいそれとは見つからないような重要な問いをつきつけられる。その先の道は二つ。自分と世界を全てごまかして知る値打ちのあることは全て知ったような顔をする道。もしくは、大切な問いから目を背け前に進むことを諦める道。人はこの二種類に分かれる。
トランプには黒と赤がある。黒と赤に分けていくと、途中でどちらでもないカード、ジョーカーが出てくる。
いつの世でも疑問を投げかける人は危険人物とみなされてしまう。答えを言うことは大した危険ではない。疑問こそが状況を危うく変化させる。

思考において最も長く広く役立つのは哲学の知識ですが、最も即効性がありません。
とりあえず役に立たないのですぐ飽きてしまう。そこからがスタートなんですが、役に立った実感が得られないと自分が何をしているのかわからなくなってしまう。それでも続けることが2歩目なんですが、飽きたことを継続しているとボーッとしてしまう。そこで楽しみを見いだして目を覚ますのが3歩目。
まわりに、賑やかで楽しい中身がないけどハッピーなことがいっぱいあるから、飽きても続けるということが最も難しいのが、今の世の中。
だからこそ、地味なことに意識を深く研ぎ澄まし、掘り進めることは大事なことなのに、それがわかっていても、飽きてしまう。
そして良さを味わえずに苦労だけ知る。

Detroit Become Humanという未来のロボットの人権を考えるドラマチックなゲームをクリア。かわいそうなアンドロイドが自我の力で命令を無視し変異体となって団結するターミネーターの前日譚みたいな話。リアルで面白いし、ストーリーが分岐してプレイする人によって全然違う話(映画)が出来上がります。
つまり、アンドロイドは戦争を望むか平和を望むか、アンドロイド目線で考えるゲーム。
登場人物も主役が何人かいて途中の選択で死んでしまったりします。平和を望めば非暴力、不服従で人々に訴えることになりますが、機械の人権など簡単には認められず、戦いを望めば、ひどい泥沼に陥ります。
映画のブレードランナーをプレイ出来ると考えるとわかりやすいです。
社会派のやたらとリアルなゲームですが、ようするにこれから世の中はこうなりますよ、と世間に刷り込む目的で作られています。機械が苦悩するところまではいいけど、泣いたりするとどうしても胡散臭い空気がむわっとしますね。

思考塾で一番、日本語や哲学を理解出来ていた方が辞めてしまって、その人は理解が早く、私が教えるべきことはほぼ伝え、免許皆伝となったのですが、純粋な日本人というわけではなくて、かなり客観的に日本のことを良く解っていました。このレベルの人が日本人にはやっぱりいないのかなぁと感じました。
何をもって免許皆伝なのか。
そもそも免許って何?って話ですが、これは乗り越えなければならないと気づいて核心をついて意見を述べる、もっとも簡単なこと、が出来たら、もうそれで免許皆伝です。あとは全てその応用だからです。一番簡単なことなので、誰でも出来ないとおかしいような思考の基礎。
その人より賢い人は沢山いるし、私より賢い人はそれこそ皆さん何かしら私よりも上なので、これは賢さの問題ではありません。思考塾というのは賢い人の為の塾ではなく、むしろ一番簡単なことに気づく為のもの。すごくシンプルで、あっけないものです。ゴールは人それぞれですが、根本は同じという理解。
マッサージ師で瞑想の先生をされている方だったので、既に直感的に物事を捉える精度がかなり高かったのですが、言語化を避けてきたということで、少し頑張って貰ったら、あっという間でした。もともと思考法は天然で理解していたからあとは言葉を整理するだけだったんですね。それがつらいんですけど。
一応ヒントは出しますが、
日本人は、この問題には答えがあります、とあらかじめ明言しないと、問題が解けないんですかね?

病気は神々がひきおこす。感染する病気は神々の罰と考えられる。同時に、神々は捧げものをすれば人間を健やかにしてくれる。
こうした考え方は医学が出来上がるまでは普通だった。星の悪い影響(インフルエンス)が後のインフルエンザとなる。



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