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【創作小説】美


 短髪の癖毛、太い眉、無精髭、深いほうれい線、黄ばんだ歯、シミだらけの頬。
 何故、私は、これほど酷く、醜くくなったのか。
 どこで、何を間違えたのか。
 最早、失うものは何も無い。
 それでも、最後に足掻きたいとは思う。
 こうやって洗面所の鏡を覗いていると、醜き姿と精神が私を追い立てる。
 顔を洗って居間に戻り、テレビを点ける。
 ニュース番組が流れて、あまりに私とは異なる生物のことを取り上げている。
 その姿はまるで、人々を救済へ導く聖獣にも見えるし、凶々しき魔獣のようにも見える。大きな目と耳、全身を覆う柔らかそうな毛並み。俊敏にボールを転がして遊んでいる。
 その生物は、猫と言う。
 私は、無意識に「美しい」と言葉をもらす。
 そうだ、私の人生には美しさが足りていない。
 机に置いていたスマートフォンを手にして、「猫 いるところ」と検索をする。スクロールをしていると、ある公園に目が止まる。その公園の敷地内には、野良猫がたくさんいるらしい。クローゼットから十五年ほど前に買ったボロボロのショルダーバッグを出して身支度を始める。
   
 大井ふ頭中央海浜公園。
 京浜運河に沿う広い公園であり、木々が生い茂る『なぎさの森』、野球場やテニスコートのある『スポーツの森』などに区画が分けられている。東京二十三区内の中でも自然豊かで貴重な公園だ。
 私は、木々や海が発する音に耳を澄ませながら、薄暗い茂みの中に僅かな光を見つける。黒猫の大きな目が反射した光。彼か彼女か分からないが、私のことをじっと見ている。もちろん、友人としてではなく、自分に害する天敵なのではないかと警戒をして、私の動向を観察しているのだろう。それを知りながら私は、黒猫の顔や身体を見続ける。私との共通点は、一つもない。姿形も感情も精神も、全て。何か、気持ちが落ち着かない。「君は良いね」と呟く。
 ショルダーバッグからタッパーを取り出して蓋を開ける。中には、猫のドライフードを入れている。タッパーを地面に置いて、その場から少し離れてみる。
 黒猫は空腹なのか茂みから出てきて、タッパーへ恐る恐る近づいてくる。途中で立ち止まり、私への警戒を怠らない。私は、一歩、いや二歩、タッパーから離れてみる。すると再度、黒猫はタッパーまで歩きドライフードを食べ始める。食いつきが良い。二、三日、食にありつけていなかったのかもしれない。食べながらも合間に、私に視線を向ける。賢い猫だなと思う。しばらく黒猫の食事風景を眺める。ただ食べているだけだというのに、見ていて飽きることがない。いつまでも見ていたいと思う。
 ドライフードを半分程度、残して、黒猫は食べるのをやめる。満足したのか茂みの中へ小走りで向かい姿が見えなくなる。私は何も口にしていない。それなのに何故か満足感に満たされている。不思議な感覚だ。
 タッパーを片付けてから、自然に感覚を研ぎ澄ましてみる。葉擦れの音に、野鳥の鳴き声が混ざる。耳心地が良くて、心が落ち着く。「にゃー」と猫の鳴き声も聞こえる。先程の黒猫とは別の猫かもしれない。まだドライフードは残っている。私は、鳴き声のする森の深みへと入っていく。
 
 夕刻に入り、公園は薄闇に包まれる。
 茶トラの野良猫を簡単に見つけることが出来た。何故なら、森に開かれた広い空間のベンチの下で、茶トラ猫は食べ物を与えられていたのだ。それを用意していたのは、背中を向けた痩身で白髪頭の女性だ。先を越されたと腹が立ってきたが抑える。しかし、この女性がどんな表情で茶トラ猫に食べ物を与えているのか気になる。白髪頭から視線を外せなくなる。気配に気づいた女性が私の方を振り返る。目が合う。私はそれでも視線を外さない。女性の目は、きつく鋭い印象があり、とても動物を愛する人間には見えない。でもそれは、私の先入観でしかなく、実際はきつい性格の人間の方が、動物を愛することがあるのかもしれない。
「なんですか」
 女性は、目にきつさに加えて警戒心を滲ませながら言う。
 私は、返答することよりも人間にまで警戒されるのかと自己否定に陥る。いったいどこに、私を愛してくれる人がいるのだろう。
「怖い」
 女性の言葉に、血の気が引く。
 何故、初対面の人間にそこまで酷いことが言えるのだろう。言われた私の立場を何も考えていないこんな人間は、生きていても仕方がないのではないかと思う。女性と視線を交わしたまま近づいていく。その細く痩せた首に、私は。
「にゃー」
 と公園内に響き渡る鳴き声を茶トラ猫が発して正気に戻る。女性は、訳がわからないという旨の言葉を漏らしつつ腰が引けている。
「あっ。ごめん。すみません」
 咄嗟に言い残して、その場を後にする。駆け足で、何度か転びそうになりながら公園の敷地から出ていく。
 
 一週間後。
 私は再び大井ふ頭中央海浜公園へと足を運ぶ。
 時刻は正午過ぎ。
 あの女性と再び顔を合わしたくないため、前回よりも早い時間に来た。
 京浜運河沿いに野良猫がいないか散策するが、一匹も見つけることは出来ない。ベンチに座り新聞を広げる中高年男性や犬の散歩をしている人と数人すれ違う。
 京浜運河沿いは諦めて、なぎさの森の中に入っていく。
 雲の少ない快晴だと言うのに、木々に囲まれると薄闇に包まれて視界不良になる。しばらくすると目が暗順応する。また茂みの中に野良猫がいるのではないかと、目を凝らしながら遅々とした足取りで木々のトンネルを進む。
 木々のトンネルを抜けて、あの広い空間に出る。白髪頭の女性と茶トラ猫に出会ったベンチがある。やはり、いつもより早く来て正解だった。女性も茶トラ猫の姿もない。安心して肩の力が抜けるが、野良猫を中々見つけられないことに疲労や苛々を感じ始める。近くに公園管理事務所があったため、気分転換に入室する。中には、どんぐりや枝を使ったクラフト作品が多く展示されている。実際にクラフト体験が出来るようだが、創作はあまり興味がないため見るだけにする。部屋の奥には大きな窓があり、その手前に双眼鏡が立てかけられている。野鳥観察のために自由に使って良いものらしい。経験はないが、ものは試しと双眼鏡を覗いてみる。野鳥はどこにいるのか。双眼鏡を左右に動かして探してみると、大きな木に一羽の猛禽類がとまっている。なんという名の野鳥なのだろう。精悍な顔つきをしていて、その顔から胴体にかけて見られるなめらかな曲線が美しい。まるで、美術館に展示されている銅像のように感じられる。しばらく目が離せなくなり、双眼鏡を自分のもののように使い続ける。しかし、ひとつ大きな風が吹いて、その猛禽類は飛び立ってしまう。
 公園管理事務所から出てすぐに、あのベンチに異変が起きていることに気づく。
 茶トラ猫が、同じくらいの体格のものに抱きついて噛みついたり、蹴ったりしている。どうやら狩りをしているらしい。何を狩ろうとしているのか近づいてみると、鳥類の羽が舞っている。狩りが終わったのか、茶トラ猫は獲物を手離す。そこには、鳩が横たわっている。首元から出血していて致命傷を負ったものと思われる。身動きは出来ないようだが、僅かに息をしている。
 私は、茶トラ猫に向かって追い払うように足を振ってみせると、驚いた茶トラ猫は逃げる。しかし、自分が狩った獲物に心残りがあるのか、離れた所から鳩と私の様子を見ている。ショルダーバッグから、タッパーを出して、ドライフードを茶トラ猫の近くに投げる。すると茶トラ猫はドライフードの臭いをよく嗅いでから食べ始める。
 再度、鳩の姿を確認する。
 今にも息が途絶えそうだ。
 しかし、あの猛禽類とは異なる美しさがあると思う。
 より身体の曲線がなめらかで、柔らかい感じがする。平和の象徴と言われている理由が、なんとなく分かった気がする。
 首元からの出血は止まることがない。
 もう助からないだろう。
 私は鳩の生命の終わりを目の前にしている。せめて、せめて、その美しさだけは、この世界に繋ぎ止めておきたいと思う。
 
 夕刻、築五十年近いくたびれたアパートに帰宅する。
 キッチンの流しで、手に持っていた袋の中身を取り出す。
 帰路で息絶えた鳩の遺体。
 心臓が停止して、首元の出血は止まっている。
 蛇口にかけていた雑巾を濡らして、血に染まった首元を拭いてみる。血は、羽毛に薄く広がっていき、むしろ汚れてしまう。
 さて、どうするか。思案をめぐらせてみるが、単純で大胆な方法しか思いつかない。仕方ないと諦念でもって蛇口をひねり、鳩の首元に水をかけて洗い流してみる。すると、羽毛に薄く広がった血が少しずつ落ちていき、流しは赤く染まる。もうこの鳩は二度と目を覚さない。つい数時間前までは苦しそうに呼吸をしていたのに。生と死の違いとは何なのか。私には答えが出ない。そんな問いにいつまでもとらわれて、いつしか空虚が押し寄せてくる。
 何十分、経っただろうか。正気を取り戻して、鳩の遺体をドライヤーで乾かす。腐敗しないように冷蔵庫で保管をしておく。
 居間で缶コーヒーを啜りながら、スマートフォンで遺体の長期保存方法について検索する。遺体を清拭、消毒、保湿剤の塗布をしてから、血液や内臓等の内容物を除去する。その後、防腐剤を身体に注入させる。大まかな手順は分かったが、保湿剤や防腐剤の種類やどこで買えるのかが分からない。今、出来ることは消毒と内容物の除去くらいだ。
 冷蔵庫に入れていた鳩を取り出して、流しのまな板の上に置く。包丁を右手に持ち鳩の胴体に当てる。スーパーで売っている鶏肉は躊躇なく切れるが、生前の形を保っている遺体を切ることには抵抗が生まれる。右手が小刻みに震えている。でも、それでも、やらなければいけない。自分にとっての美しさとは何なのか。それを追求していけば、不安と不明に塗れた世界に彩が生まれるかもしれない。
 震える右手を左手で抑えて、包丁の切先を胴体に差し込む。
 
 カーテンの隙間からこぼれる朝日。
 眩しさに耐えられず目が覚める。
 外から、可愛らしい野鳥の鳴き声が聞こえる。冬が終わり、二十度前後の暖かい日が増えてきている。海の渡った先で越冬したツバメが戻ってきたのかもしれない。
 スーパーで半額に値引きされていた食パンを何も塗らずに頬張り、冷房をつけたまま家を後にする。
 近くのハローワークで失業手当の講習会に参加する。眠気に襲われて途中ほとんど記憶がないが、なんとか最後まで参加する。
 駅前のコンビニのイートインで、おにぎり二個を素早く食べてから、大井ふ頭中央海浜公園へ向かう。
 京浜運河沿いを歩いていると茂みの中に猫の影を見つける。近づいて目を凝らす。前にも見かけた黒猫だ。私に気づいていないのか全く警戒している様子はなく、ただ前足を舐め続けている。何か酷く汚れたり、臭いがついていたりするのかもしれない。と思った直後、黒猫が舐めている前足に微量であるが血がついていること気づく。公園内は、野鳥と野良猫が多い。何か争いが起きて怪我を負ったのかもしれない。おそらく争い相手も無傷ではなく、それほど遠くない場所にいるはずだ。その相手も無事なのか気になり、京浜運河沿いの散策を続けることにする。
 
 黒猫がいた茂みから五分も歩かない京浜運河沿いの岩場に、首元や胴体に怪我をして出血している野良猫を見つける。初めて見る茶トラやキジトラの柄が混ざった猫だ。おそらくあの黒猫と戦ったのだろう。怪我は酷く、皮膚が裂けて骨が露出している部分もある。あまり食べ物にもありつけていなかったのか、痩身で肋骨が浮き出ており、栄養状態の悪さが窺える。
 満身創痍の野良猫をタオルに包んで、ショルダーバッグに突っ込む。小さい声で二回鳴いたが、抵抗する力を失っているようだ。この野良猫が、よくもあの黒猫に一矢報いたと関心しながら、足早に帰路を辿っていく。
 
 帰宅して、ショルダーバッグを居間に置いてから流しで顔を洗う。帰路の途中、怪我をした野良猫はまた数回鳴いていたが、身体を動かそうとすることはなく、難なく連れてくることが出来た。
 冷蔵庫から缶コーヒーを出して一口飲む。そしてため息を一つ。私の心臓の鼓動が全身に響いている。
 缶コーヒーを持って居間の中に入ると冷房がよく利いていて肌寒いくらいだ。
 片側の壁の上部には、私が手を施したある美術品がある。
 つい先日まで、鳩の遺体として存在していたものだ。
 体内の内容物を取り出した後、胴体を縫合し、全身に保湿剤を振りかけている。防腐剤は、木材や防虫として使われているものが多く売られていて、一応、二、三種類は買ってある。どれを使うかは後で考えることにする。
 そんなことより野良猫はまだ息をしているのだろうか。
 ショルダーバッグを開けて確認してみると、身動きも鳴きもせず、生きているのか分からない。野良猫を抱き上げ外に出し、顔をよく見てみる。目を開けているが眼球に光がない。呼吸もしていない。死後硬直はしていないため、心臓が止まってからそれほど時間は経っていないのだろう。
 改めて、猫の全身を観察する。丸い顔に大きな耳が立っている。毛並みは荒れているが、しなやかな曲線を持つ身体から美しさは失われていない。
 鳩の時と同じように、猫の遺体を流しに持っていき、傷口の血を洗い流す。また流しが赤に染まる。私は、血を見るのが苦手だ。しかし今は、血への嫌悪感と共にその鮮やかな色彩に美しさも感じる。なんとも捉えようのない複雑な感覚だ。
 洗い終わった野良猫の遺体をドライヤーで乾かし、冷凍庫の中で保管をする。今日は、内容物の除去までやる気が起きない。また後日、気力を蓄えてから取り組もうと思う。
 
 頭部の左側に、木の実がひとつ落ちてきたような感じがする。すぐに手で確認してみると怪我にはなっていないが髪の毛が湿っている。その後、何度も頭部に木の実が落ちてくる感じがあって私は混乱する。駆け足で公園管事務所の軒下まで避難する。空を見上げてみると、大粒の雨が降っている。もう一度、頭部を触ってみるとシャワーでも浴びたかのように髪の毛全体が濡れている。
 公園管理事務所の中に入り、自販機で缶コーヒーを買って一息つく。出かける前にテレビニュースで見た天気予報では、雨が降るとは言っていなかった。腹立たしさを覚えながら傘が売っていないか探してみるが、そんなものはなさそうだ。
 しばらく缶コーヒーを飲みながら雨足が弱まるのを待ってみる。しかし、むしろ雨量が増えてきている。諦めて濡れるのを覚悟しなければならないと思う。まだ、やるべきことがある。帰路につく気持ちにはなれない。
 飲み終えた空き缶を捨てて軒下まで出る。まさに、バケツをひっくり返したかのような大雨だ。これでは、公園内に人も猫の姿も消しているかもしれない。
 軒下から外に出て、なぎさの森の中へと入る。木のトンネルになっているため大雨の割には、あめり雨粒が降ってこない。なぎさの森を中心に散策してみることにする。
 茂みに目を凝らして歩くが、やはり猫の気配は全くない。これだけ酷い大雨だ。どこかで雨宿りをしているのだろう。今日は、猫だけが目的ではないので散策を続行する。
 二十分程、歩いただろうか。
 ようやく、なぎさの森の中で私とは別の個体を発見する。
 長い白髪頭の女性。黒の合羽で全身を覆っているが、背中の辺りが膨れている。リュックを背負った状態で合羽を被り、リュックが濡れないようにしているのだろう。
 彼女と会うのは久しぶりだ。
 全身の筋肉が硬直する。
 声をかけたい。
 でも、なんて声をかければ良いのか分からない。
 思案を巡らそうとしても頭の中は虚無に満たされていき何も定まらない。
「あっ」と小さくもれる。言葉が詰まる。
 女性が私に気づいて振り返る。
 あの懐かしすら覚えるきつく鋭い目つき。
 相変わらず、天敵を前にした猫のように警戒心を隠さない。
「えっ」
 女性の方も驚きのあまり言葉に詰まっているようだ。
「あの、猫とか鳥って美しいと思うんです。毛がふわふわしてるし、鳴き声かわいいし」
「えっ、なんですか」
「あなたも猫に餌をあげていますよね。それは、猫が美しいからやってるんじゃないんですか」 
 女性は何も答えず、硬い表情で後退りをしていく。
 この人には、何も分からないのだなと思う。。
 私は、女性に近づき「大丈夫。大丈夫だから」と声をかけながら、女性の肩を掴んで茂みの中へと全力で引っ張る。すると女性は「きゃ」と小さく叫んで地面に倒れる。顔中泥だらけになり醜いなと思う。右足で思い切り女性の胸を蹴ると苦しそうに胸を抑えながら咳き込んでいる。そのまま馬乗りになって、痩せた細い首に両手を置いて「あなたも動物好きなんですよね」と問う。
「離して」
「なにが? 家には鳩も猫もいるから。大丈夫だから」
 両掌を開いて首を掴んでみる。トクン、トクンと頸動脈が波打っている。これは生命の現象だ。トクン、トクン、トクン、トクン。でもそれはいつまでも続きはしない。私の手を通して感じていたそれは、少しずつ感じ取れなくなっていく。
 
 家に着く頃になって、ようやく雨が止んだ。
 全身びしょ濡れになっていたり、手足や肩の筋肉に鈍痛がしたりして、身体が鉛のように重い。
 私は、担いでいたそれを流しの前の床にそっと置いてからシャワーを浴びる。汗は流れても鈍痛は少しも流れてくれない。
 浴室から出て真っ先に冷蔵庫から缶コーヒーを取り出し一口飲む。よく冷えていて美味しい。居間の扉を開けると冷気が私の全身を包む。飲みかけの缶コーヒーを居間の机に置く。流しに戻り、床に置いていたそれを包むバスタオルを取る。
 野良猫の毛並みのように荒れた白髪頭。血の気のない肌の色。首元にある手形の痣。痩せた手足や身体。それは、この世の様々な不安や困難から解放されて、美しさを手に入れた。
 流しの下の扉を開けて包丁を取り出す。そして、それの臍の上辺りに刃を当てる。もう何も躊躇することはない。
 力を込めて切先を臍に刺し、思わず「くっ」と声を漏らしながら、下腹部の方まで裂いていく。まだ心臓が止まってそれほど時間が経っていないからか、血が波になって溢れてくる。さらに胸と臍の間の腹部を裂くとまた血の波が押し寄せてきて、この痩せた身体にこれほどまでの血が通っていたのかと驚く。
 しかしこれで、腹部の中心を真っ二つに裂くことができた。
 次に腹部を開いて内臓を取り除きたいが、酷く強い疲労感に襲われる。
 流しで手を洗ってから居間に戻り、缶コーヒーを飲む。大きなため息を一つ吐く。
 居間の壁を見上げると防腐処理を施した鳩と猫の遺体が飾られている。不慣れで形が崩れてしまった部分もあるが、初めてにしてはよく最後まで成し遂げたと自画自賛する。
 やはり何度見ても美しい。
 鳩の首から胴体にいたるまでの曲線。
 猫の顔は、耳、目、口、鼻、それぞれの部分だけでも可愛らしく愛おしい。
 この私だけの展示会をいつまでも続けられるなら、冷房代など惜しくはないと思う。
 缶コーヒーを飲み干す。
 もう三十分ほどは休めただろう。
 居間を出てそれの処理に取り掛かる前に、洗面所で冷たい水を出して顔を洗う。
 ふと目の前の鏡を見てみると、血に塗れた得体の知れないものが写っている。それの輪郭は不明瞭で歪んでいるが、かろうじて人体の形に見える。頭部と思われる部分には、鼻や口は無く、光の無い酷く窪んだ両目が所在なさげに微動している。それは一体何なのだろう。生物というよりも、非生物的な何かであることは間違いない。私の感覚は、奇妙にもそれと同一化していっているような気がする。それは、私なのか。しかし、私は、それになりたくない。抵抗したいと思う。抵抗したいと思うが、絶対に逃れられないという確信が芽生える。何か、酷く、私の持つ感情、感覚、記憶、それら全てが失われていく。何か、何か、何か、酷く、酷く、酷く。そう、私は、既に、これ以上、言葉を紡ぐことすら出来ない。
 

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