100キロハイクに参加してきた

100キロハイクという早稲田で61年間紡がれてきた歴史をどれくらいの人が知っているのだろうか。少なくとも私はパフォーマンスサークル(通称パフォサー)に入るまで恥ずかしながら耳にしたこともなかった。というより、7つ程のサークルをのらりくらりとしていた1年生の主はほっつき歩きすぎて早稲田文化に足を踏み入れることもできなかったのである。何かひとつ、たったひとつで良い、自分が夢中になれるサークルを見つけられたら早稲田生として新しい学生生活を歩むことになる。サークル後に今日はどこの油そばに行くかわいわいしたり、学館内のセブン前でたむろしたり、下は地下上は11階まである学館を彷徨ったり、戸山公園で練習したり、大隈講堂に入り浸るようになったり、授業に行くだけでは知らない早稲田の文化がそこには沢山あった。パフォサー同士の横のつながりも強い。もしこの記事を読んでいる方の中に高校生やフレッシュマンがいたら、個人的にはパフォサーをお勧めする。ダンスはできなくても興味はなくても、結局は周囲の仲間次第、始めてみれば楽しくなるしやる気だって出てくる。ちなみに主が現在入っているサークルを知ったのは入会締め切りの1週間前だ。入会前から熱量高い同期の中で一人異分子が混じったかと思いきややってみればのめり込めるのである。

話がそれてしまったので本題に戻そう。そう、主はサークル全体で声を掛けられ100キロハイクに参加してきた。動機は至って単純、早稲田っぽいというのと未知の世界に興味があったからである。言うなれば人生で一度は富士山に登っておいた方が良いというように、人生で一度経験してみるのも悪くないと思った。給料日前の口座残高が1000円を切っているカツカツ大学生なので、交通費を節約すべく数時間歩くことはざらにあったが、にせよ2日間で100キロ歩いたことなどは勿論ない。しかし巷の噂で完歩率92%と聞いて「それなら行けるだろう」と参加することにした。今から区間ごとの客観的事実と主観的な感想を交えて100ハイの辛酸と甘美を書き留めていく。

1日目

集合が本庄早稲田に朝7〜8時。最寄り駅が新幹線で、JRの本庄駅から歩くと40分かかるらしい。これから100キロ歩くというのにそれに加算して歩くのはきついということで、前のりして最寄り周辺で車中泊をするかラブホに泊まるか真剣に悩んだ。諸々計算した結果新幹線が一番安かったので、5時に家を出て新幹線に乗った。乗り換えの大宮駅でアラブ系の外国人の方に「○○駅に行きたいんだけど行き方がわからないから調べてくれ」とせがまれ人助けをしたらお礼に飲み物を奢ってもらえた。ちゃっかり便乗した友人とちょっぴり高めなアロエ配合のむヨーグルトを買ってもらい新幹線に揺られること20分、本庄早稲田に到着。顔はめパネルが設置されててうきうき、初日の滑り出しはかなり良い。駅を降りて数分のところに所在するJAひびきので荷物を預け開会式を行い、2日間の長い戦いは幕を開ける。本庄市の市長やら議長やらマスコットキャラクターやら色んな方が来て話してくれた。

1区

朝9時100キロハイク開始。先頭集団は旗を掲げる精神昂揚会の後ろを走っていく。初っ端からいらん体力は使うまいとのんびり歩き始めた主たちは良い感じに団体の真ん中を歩いていた。のどかな景色が広がるが、それがまだ楽しいと思える。民家も多いので郊外を散策している気分だった。途中JAできゅうりやトマトが販売されていて道草を食う。歩いた後のきゅうりの塩漬けは最高。みそもあったけど主は塩派。友人と喋りながら歩いたらあっという間に1区終了、休憩地点の公民館の駐車場に到着した。なんだこんなもんか、余裕だな。2時間半で着いたということもあり完全に100ハイをなめてしまった。配給される水と味のない炭酸飲料を片手に30分ほど休憩して2区が始まる。

1区は古き良きのどかな町であった

2区

暑いからと開始1時間くらいでコンビニに寄ってアイスを買った。コンビニに寄るタイミングは自由なのでいつでも行けるのだが、タイミングを間違えると置いていかれたり抜かされるので注意。個人又は複数人の集団で自由に歩けるとは言えど、全体的な集団の後半部分にいくと焦りを覚えて精神的にきついので中間よりちょっと前くらいをキープして歩いている方が良い。景色は本格的に山になり始め、立ちんぼの人に「このトンネルを抜けたらすぐミニストップがありますよ」と言われうきうきで歩くのに一向に見えない。そこからコンビニに辿り着いたのは30分後だった。ざっと14時半、そろそろ疲れが出始めてコンビニで休憩しようと思ったら一緒に歩いていた友人に「早く出発しないと歩けなくなる」と促されしぶしぶコンビニを後にした。山を抜け町に入り、一昔前の店舗ならではの景色が広がっていて楽しい。普段都内にいると味わえないこの感覚が久しぶりで、個人的には自然より街中の方が好きである。リタイアしても民家があれば最悪なんとかなるしな。そんなこんなで気付いたらまた山道。「あと何キロ」「あと何時間」の感覚が狂い始めて、2時間歩いて休憩所なら頑張れるようになってきた。1キロがだいたい15分くらいなので5キロをきれたら泣いて喜べる。自分の体力の限界を感じ始めた頃、後ろを歩いていた友人集団と合流して元気が出た。主以外にも体力の限界を迎えている人がいて辛いのはみんな同じ、頑張ろうと励まし合う。夕方前到着した休憩所の道の駅ではいよいよブルーシートが敷かれていた。横になって足をあげることで乳酸を分散させる。しかしここでも長居しすぎると歩けなくなるので20分で体育館を後にした。ここから長い長い3区が始まる。先輩に3区は2区より長いと聞かされ絶望したあの瞬間は生涯忘れない。

夏の風景画が広がっていた

3区

左膝裏の筋を攣って上手く歩けなくなっていた。足首に巻いていたサポーターを膝に巻きかろうじて歩くが辛い。まだ喋っていて体力のある友人2人に先頭を歩いてもらいその後ろを歩き方が安定している友人に、そしてその後ろを主が歩くことで安定した陣営を確保した。サイレント離脱が怖いと心配されたが「何かあった時は無理!って叫ぶから助けて」とだけ声をかけ歩き方や表情など気にも留めずひたすら無で歩き続けた。辺りは夕暮れに差し掛かり橋から綺麗に見えた夕焼けは主たちの背中をちょっぴり押してくれた。気付いたら日が落ちてナイトハイクになる。ここで大事なのはしっかり糖分をとること。糖分をとらないと力が入らなくなり歩けなくなる。主は朝ごはんのフルグラと1区で食べたきゅうり、2区で食べたアイス以外胃に入れていなかったため死にかけていたら筋肉管理に詳しい友人がコンビニに連れていってくれワッフルを買ってくれた。糖分チャージ完了、少しスピードをあげて前衛陣に追いつくべく歩く。信号が赤の度座り込んでしまうくらいには身体が限界を迎えていた。やっとの思いで見つけたコンビニで休憩していると、スタッフの方に「今すぐ出発しないと足切りに遭います」と急かされ重い足を根性で無理やり動かす。滝つぼダイビングで真っ先に飛び込みに行ったり何かと粘る性分の主は親から「あんたは根性あるよ」と言われて育ってきたがそれでも3区のナイトハイクはきつかった。進んでも進んでも広がる山道、コンビニどころか民家も見えない、上り坂をひたすら上っても下り坂はやってこない。こうなったらがむしゃらに進むことしかできなかった。ここで諦めたとてどうせどこかまで歩かなくちゃいけないんだ。地元や愛犬に会いたくなって定期的に泣きかける。途中男祭りの集団に挟まれ元気出てきた。神輿担ぎながら歩いてるの本当にすごい。ようやく出会えたセブンで動けないので友人におにぎりを買ってきてもらい糖分チャージ。この頃になるとコンビ二毎にガードに足をあげるようになっていた。普段なら電車の席に座れない他地面に座ることは絶対ないしファミレスではお箸やスプーンを拭くくらいには重度の潔癖症である主が、疲れのあまりコンビニで横になる姿など親に見られたら発狂されるだろう。それはさておき、懐中電灯で照らしてもらいながら半べそでようやく入間市に入った。民家が見えた時の安心感が半端じゃない。別のコンビニで夜ご飯を調達して近道を横目に正規ルートで休憩所の東京家政大に向かう。最後の最後で急斜面の坂道を5分上らされ本当に死ぬかと思った。校舎内での飲食が禁止ということで校門前で夜ご飯を済まし、せーので友人と体育館に入った時の喜びはこの上ない。先に到着していた友人たちが「お疲れー!」と迎え入れてくれた。長蛇のトイレ列に並んでいたら前にいたパフォサーの方に話しかけてもらい世間話をしたり、一日同じ戦いに挑んでいただけで謎の一体感が生まれる。なんせくったくたなのでブルーシートの上に乱雑に寝袋を敷いて寝ることにした。ここで忠告しておくべきなのが、寝袋は絶対に持ってこい。薄っぺらいブルーシート一枚の上で寝たところで疲れ切った身体は回復しまいし普通に風邪を引く。直で寝ていた友人たちは翌日こぞって「喉が痛い」と龍角散を舐めていた。12時就寝の予定がナイトハイクが予定以上に押していたのか眠りについたのは12時半前である。

橋の上から見た夕焼け
寝床はこんな感じである。リアル雑魚寝


2日目

4区

4時半起床が5時に変更。例年フライパンとお玉で起こされるらしい2日目の朝は今回は精神昂揚会の怒鳴り声で起こされた。目を覚ますと右足裏が攣っている。身体もバキバキで思うように動かない。右足を引きずりながら混みあう前にトイレを済まし顔を洗って2日目に挑んだ。朝6時から歩くのは普通に朝活。気温も心地よく清々しい気持ちで4区は乗り切ることができた。途中サークルの首長や先輩が後ろを歩いてくれたりして3区よりは楽しく歩いていたら友人がリタイアしたことを聞く。捻挫よりも友達のリタイアの方がきついと聞いていたいが本当にそうで、危うく自分もリタイアしようかななんて考えがよぎってしまった。それでもなんとか早稲田大学所沢キャンパスに辿り着く。最後の最後とこキャンに入るために謎の急斜面を登らされ下らされ階段を使わされといつもならなんともないだろうが2日目の身体には滲みる困難を強いられることになった。二度ととこキャンなんか行ってやらない。やっとの思いで体育館に着いたら始まったのは2日目恒例所沢体育大会。誰が参加するんだこんなもんと思っていたら参加者の半分は参加しているし主が所属するサークルは抵抗虚しく全員が参加することになった。ちなみに半分は女子。同じ女とは思えぬ体力でパフォサーすげーと他人事のように思うしかなかった。ラジオ体操の後、スクワットをしたりうさぎ跳びやらバービーやらで回ったり相撲をとったり、これからまだ半分あるというのに体力を削ぐ競技ばかりする。しいて言うなら今年はシャトルランがなかったのが救い。2日間を通して唯一配給されたごはん、ヤマザキのメロンパンをお腹に入れて最も過酷な5区が始まる。

所沢体育大会の様子

5区

最後の砦となる山と湖を越えなくてはいけない。山はとこキャンに行くために上った山を下るだけだからまだ良かった。問題は湖だ。埼玉から東京に出るには狭山湖と多摩湖を通らなくてはいけない。これがなかなか過酷、無駄に湖がでかいせいでなかなか抜けることができない。足裏の筋が切れるまではリタイアしまいと腹を括ったがそれでもきついものはきつい。ちょっとでも走ったら筋を切ってしまいそうなのでひたすら早歩きして前衛に追いつくしかなかった。追い越す度に参加者の人たちが「頑張れ!」とか「足引きずってるのにすげーな」とか声をかけてくれるがその応援に対して振り絞って「頑張るっす!」と大声で返すことしかできなかった。足だけじゃなくて顔もひきつってるのが自分でもわかる。しかしここで諦めてこの集団に置いて行かれたらもう拾ってもらえないだろう。その一心でなんとかくらいついた。だんだん標識や看板が東京の市になり、山を下ってる時に街が見えた時の感動は忘れない。思わず「湖抜け出したーー!埼玉なんかもう二度と行かない!」と叫んでしまった。ごめんなさい、多分埼玉はこれからも行く。行かないのは埼玉の山。そんなこんなで街には辿り着いたもののそこからがまだ長い。これで5区がやっと半分だと言うのだ。残りの5区どんなだよ、と心の中でつっこんだ。さすがに身体が悲鳴をあげていて一緒に歩いていた集団にも置いていかれかけたその時、いつの間にか後ろを歩いていたらしいサークルの首長と先輩が拾ってくれる。先輩の背中はやはり偉大だ。自身もきついはずなのに見るからにきつそうな主の背中を押してくれる。道中休憩所でもなんでもない所で校友会のおじさんたちが塩分チャージと水を配ってくれててその優しさに涙が出た。何まわりも違くても世代が離れていても早稲田というだけで縦の繋がりが生まれている。愛校心が強くならざるを得ない。「100ハイ仕様のコンビニ!屋根つきの休憩所を設置してるよ!」というキャッチコピーのファミマに入りかけようとしたら首長に「まだいける」と止められこのコンビニは見送ることになった。当時は「こちとら限界なんだよー!休ませてくれやこの鬼代表」とキレかけたが今思えばなんだかんだ歩いていたのだからそれを見破った首長は主より主の状態を読んでいたのかもしれない。いや、ただただ鈍感でストイックなだけだったのかもしれない。とにかくひたすら歩いてあとはずっと真っ直ぐ歩くだけだという道に辿り着いた。23区以外東京の地理事情に詳しくない主、「これもう少し歩いたら中野とかですかね」とぼやいた時の先輩の険しい顔が忘れられない。その顔は物語っていたのだ、ここから東村山市と東久留米市と西東京市という大きすぎる壁が立ちはだかっていることを。2区あたりで山道より街の景色の方が楽しいから良いと言った気がするが、前言撤回しよう。街は街でも新青梅街道がずっと続くのは辛い。民家はたしかにある、ディーラーもあるしラーメン屋もあるのにコンビニはなかなかない、だがここまで来たならなんとしてでも早稲田まで辿り着きたい。最初は完歩賞をもらうんだとか完歩したら銭湯に行くんだとか武道家を食べるんだとか馬場歩きで紺碧を歌うんだとかポジティブなモチベーションで歩いてたがここまで来ると底辺の泥まみれのモチベでくらいつくことしかできなかった。ペースは確実に落ちており、焦燥感もあったのか過呼吸になり始め手が痺れ始めた。末期の症状かもしれないと自覚しながらも友人に迷惑はかけられまいとひたすら歩く。途中のコンビニで同期がアイスを買ってくれた。人間は人間に支えられているのだ、本当に。この2日間を通して主は人の優しさを実感した。ちょっと今はきつすぎてできないけど帰ったら自分も人に優しくあれる人間であろうと決意した。友人は友人と再会して涙していた。たった数時間なのに久しぶりに見る仲間の顔は心強く頼もしい。色んな涙を流しながら早大学院に到着し長い5区は幕を下ろした。

とてもとても大きい狭山湖

6区

体育館のブルーシートで炭酸と栄養ゼリーをもらい仮眠したらちょっとだけ楽になった。あとは練馬区から新宿区に移動するのみだ。5区ほど道のりも険しくないし距離も近い。残された体力なんぞないけど精神力で辿り着くのみだ。主が皆無すぎて友人に前を歩いてついていく形で、閉会式に間に合いたい一心でペースをあげて歩いた。男祭りのイカつい男たちに「足いったそう!頑張れ!」って背中を押してもらったり、昨日出会った参加者や同士のパフォサーの人たちと「あともうちょっと!頑張りましょう!」って声を掛け合ったり道行く歩行者や車に乗っている人たちから「頑張れ!」と応援してもらい中野区に入る。1区と最後のこの区間だけはゴールも間近だったし団結感もあったから楽しかった。今私達はとんでもない挑戦を成し遂げようとしているのかもしれない。西武新宿線の隣を歩き始めたらあっという間で、山手線が見えた時には涙が出てきた。その橋をくぐればOKの道に辿り着き見慣れた高田馬場の景色が広がる。この2日間で何度夢見たことだろう。その景色が今目の前にある。あとは早稲田まで歩くのみだ。下手すれば亀の歩みより遅い足を動かし向かっていたその時、一報が入る。19時までに校門をくぐらないと足切りだ、と。その時主は西早稲田の三叉路にいた。タイムリミットは残り10分、頑張れば間に合う。しかしどうあがいてもこれ以上走ることはできなかった。6区を一緒に歩いてくれた友人に「ごめん、これ以上早く歩けないから私の分まで先行っといて!」と告げ自分のペースでもいいからゴールはしようと半ば諦めかけたその時。「私背中押しますよ!」と後ろから声をかけられ、振り向くと昨日今日で世間話をしたり励まし合った参加者の女性だった。集団で物理的に背中を押してもらい改めて人の優しさに触れて感激していると、一緒に歩いていた友人が少し先で待っていて「肩貸すから一緒に走ろう」と主の腕を自分の肩に回してくれる。申し訳ないながらもその優しさにのせてもらい、全体重と全体力と全感情を彼に預けた。早大南門通りに入ると、リタイアした友人が応援に駆けつけてくれタイムリミットの4分までゴールテープを切ることができた。最後諦めかけた時、背中を押してくれた全ての人に感謝しかない。知っている人も知らない人もそんなことは関係なく一丸となってがむしゃらに歩き抜いた100キロハイクだった。閉会式には無事間に合った。

馬場に着いた時の安心感は尋常ではない


100ハイを終えて

閉会式で気付いたことがある。参加者の3分の2は男、賢い女はこのような過酷で狂った行事に参加なんてしないのだ。賢い選択だ、とは思う。だけど主は100ハイに参加できたことを誇りに思うし改めて早稲田で良かったなと思うし学んだことも沢山あった。体力なんてものはとっくに捨てている、なんせ学生時代本気で挑んだシャトルランの平均記録は27回だ。100キロ歩くと聞くと体力が必要に思えるがそんなのはどうにでもなる。100キロを歩き抜く上で必要なのは周到なサポーターグッズの準備と精神力のみだ。これは自分との戦いである。追い込んで追い込んで追い込んでそれでも甘えず諦めず自分に厳しくあれるようになれたなら、100キロハイクに参加した意味は大いにあったと言えよう。主はこの2日間を通して根性と愛校心と優しさを学んだ。母には「自己中のあんたもちょっとは人に優しくできるようになるんじゃない」と言われた。辛くなったり自分のことしか考えられなくなったときはこの日のことを思い出そうと思う。


後日談

本庄市の市長の話で、娘が参加した際に1週間寝込んだと言っていた。1週間はさすがに盛りすぎ(笑)、と嘲笑していた自分へ。お前はそれよりも長い期間不自由になる。100キロ歩いた後、家に帰るまでが本当の戦いだ。本キャンから早稲田駅まで行くのに何十分費やしたことだろう。階段の上り下りもきつくて高田馬場で東西線から山手線に乗り換える階段など地獄でしかない。寝袋が入ったボストンバッグを抱えながらやっとの思いで電車に辿り着いたかと思いきやまた乗り換えで地獄を見る。近年バリアフリー化が進んでエレベーターが設置される駅が多くなったとは言えども、歩かなきゃいけないところは歩くしエレベーターまでも長いし、結局人生はハイクである。いつもは1時間で行ける通学路に倍の時間を費やした。家に帰れたと思いきや5秒で行けるはずの玄関からリビングの距離に30分かかるくらいには足が鉛となって動かない。2日ぶりの念願のお風呂に入るのもきつければ、横になっても足が痛すぎて眠れない。何をしていても辛い。翌日起きたら自分の手で補助しないと足が動かなくて接骨院に電話したら「それは一度脳神経外科で神経を診てもらった方が良い」と言われた。結局血栓や神経に異常はなかったため接骨院でほぐしてもらいながら「これは極度の炎症と腫れを起こしていますね」と診断される。両足とも腫れすぎて血管が見えなくなっていた。そこから数日間授業を切って寝たきりで過ごし、4日ぶりに大学に行ったら友人達に心配された。教授や授業はさておき、主、友人には恵まれている。エレベーターを使わせてもらいつつだんだんクロックスじゃなくても歩けるようになってきた。1週間してようやく腫れが治まり始め(それでもまだ引きずってはいるが)サークルにも戻れるようになってきた。

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