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余生をともに過ごしましょう

ひとに、自分のことを話すのが苦手だった。
自分の中に、趣味は、仕事は、休みの日はなにをしてるの、という質問にはこう答える、というテンプレートがあって、その中からその日の気分で適当に答えている。
話すのが苦手だから、最初にそういう風に決めておくと会話がスムーズだった。ひととの会話で自分のことをきちんと伝えられる気がしなくて、スムーズにその場が過ぎ去ればよいと思っている。会話を楽しむ気がないというより、楽しむ余裕がないという方が大きい。
いつも、いつでも、普通でありたかった。
普通からはみ出るのが怖かった。はみ出て、誰かから糾弾されるのが怖かった。

どうして画一的な話しかできないのかというと、たぶん、この話をしたところで私の、心の奥の柔らかい部分のことは分かってもらえないだろうと思っているからだ。
理解してもらうには言葉を尽くさなければならないし、時間もかかるし、どんなに丁寧に説明しても自分と同じようには感じられないし、なんだか寂しくなってしまう。
極端で、傲慢なんだとおもう。
本当の自分を理解してほしいけど、ひとに理解されるわけがないと思っていて、だからうまく話せない。うまく話せないから理解されなくて、やっぱりね、とひとのせいにしている。
人付き合いというものがずっとうまくできなくて、自信がないまま社会に出て、テンプレートのように会話をすることで少し楽になったけどやっぱりどこか寂しい。
それでも、関わりたい、知りたいと思うひとのことは大事にしたい。
わたしが好きなように振舞ってもそれを否定しないでいてくれるように、画一的な話ではなくてつまらなくても私自身のことを話していきたいし、もっと知っていきたい。
自分が成熟していないと本当にひとを愛することはできないし、ひとから愛を受け取ることもできない。
生真面目に愛とは何だろうと考えているけど、結局は個人の成熟と思いやりの気持ちを重ね合わせる必要がある。

つまるところ、自分に素直に生きるよう訓練していくのがいいのかな。
感情にも言葉にも、態度にも。
その上でだれかと一緒にいられたらいい。そんなひとと一緒にいたい。

とても素直な友人がいて、そのひとは心の赴くままに感じたことを話してくれる。わたしにはできないことができるひとで、そうありたいと願う存在でもある。
なんでこうなったのか自分でもよく分からないとその友人は言った。
「昔事故で死にかけたことがある、そのときの死の感触や匂いが忘れられない。きっと、その時に自分は一度死んでいるんだとおもう。それから先は、ずっと余生の感覚だ。」
わたしにはその感覚は分からないけど、あなたの余生を一緒に過ごせてよかったなとおもう。



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