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太秦、映画製作所の思い出

エキストラに出演した祖父の縁で、撮影所見学

ある日、家を修理にきた大工さんが、作業の休憩時間に母と雑談しているのを小耳にはさんだ。「わしなんか撮影所の大道具でっしゃろ」の仕事をしていると聞こえた。「オ・オ・ド・ウ・グ…」は何かわからなかったが、何か惹かれる雰囲気を感じていた。そこでその人が帰るのを待って母に聞いてみた。母がいうには、その人は腕のいい大工さんで、映画のセットを作っている人らしい。「えっ、セットって何?」母に「映画の背景とか場面の道具のことや」と言われて、ますますわからなくなったが、子供はそんなことはすぐに忘れる。母の実家は昔ながらの酒屋で、その地の名士たちが祖父と囲碁に来る。そんな一人に撮影所の監督助手がいた。その人はいつも何かを探していて、ある時祖父にエキストラとして映画に出演してもらえないかと打診があった。というのも祖父は体が大きく、髭を蓄えてかっこがいいので、お客さんにもモテモテでこの界隈でも目立つ存在だった。そんなご縁で撮影所の関係者は実家で祖父との碁を楽しむようになった。例の大道具の大工さんも、その一人だった。

そういうご縁で店の宣伝になると思ったのか、祖父は何本かの映画に出た。映画が封切りになると、祖父を見ようと祖父のファンが映画館につめかけたそうだ。映画を見た近所の女性たちは、こっそり祖父を見にきたりで、店の売り上げは急増したと聞いた。祖父の撮影所のご縁で、ある日、子供たちは撮影所に招待された。案内役として助監督が用意したのは、あの大道具の大工さん。見学に参加する子供たちは、母の甥っ子でわたしの従兄弟、それにわたしと母が撮影所見学に行くことが決まった。母は大工さんとは顔見知りで、母が3人の子供を引率、という格好になった。この壬生界隈は嵐電にアクセスがよく、映画が撮り終わるまでこの近在に住む映画人もいた。実家の隣りのモダンなアパートには、当時映画によく出ていた俳優夫婦、その子が住んでいた。店にもよく買い物にきたが、その子とはよく一緒に遊んだものである。撮影所に父母と行っている間にそういう企画があったのか、その子はその後、大ヒットしてシリーズ化されたテレビドラマの主人公として全国でも知られるようになった。

大道具のシステマチックな作りに、子供たちは大興奮!

太秦の撮影所は、かつて日本のハリウッドと称された映画の都、太秦は、無性映画時代は一世風靡したものである。さて、撮影所を案内されたわたしたちは、撮影が進行中のセットや有名俳優のリハーサルを見学した。子供は映画のセットに目を丸くした。とりわけ案内役である大道具のおっちゃんの仕事場が、特に子供たちに人気だった。映画で撮影するためにだけある大道具は、松の木や家具もある角度からみたらりっぱな木や家具でも、反対側は何もなく、撮影するためにデザインされたおもしろさが子供たちに大うけだった。大道具のおっちゃんは、大いに気分良かったと見えてわたしたちが帰る時には、小さな道具のおもちゃを持たせてくれた。

その後、従兄はこの経験がよほど印象に残ったのか、舞台装置の世界に進んだ。その後、オペラの装置を研究するため、フランスに留学した。あの撮影所の見学が進路を決めることになって、母は大満足だった。


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