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【あたりまえにくる明日は本当にありますか?】

まだ半世紀も生きていないけれど、
思えば私は
“生と死”がテーマな人生だなぁ
とつくづく思う。


人生でいちばん初めに身近な人が
亡くなる体験をしたのは、
小学校2年生の時だった。


“おかあさん”って、
まちがって呼んでしまう子が多いくらい
優しくていつも寄り添ってくれて慈悲深い
小学校1年生の時の担任の先生。

大好きだった。


先生は私の母と年齢が同じくらいで
若かったからか、癌の進行が早くて
あっという間に亡くなってしまった。


年齢が同じくらいで、
同じくらいの年齢の子供を持つ親としても、
意気投合した母と先生はとても仲が良くて、
プライベートの話もよくしていたそうで、
病気になったことも母には話してくれたそうだ。



一度だけ母に連れられて
お見舞いに行ったことがあった。
なんとなく覚えている。
まだ幼かった私は、


『ちがう!先生じゃない。』と、
抗がん剤治療で毛も抜け落ちて
痩せ細って変わりゆく先生の姿を
受け入れられずに
母の後ろに隠れてしまった。


母はとても困ってしまったと言っていたし、
理解できるようになった今では
先生に申し訳なく思う。


それでも先生は『いいのよ』って
優しく私の名前を呼んでくださった記憶がある。


きっと私は目前に控えた先生の死を
感じ取って受け入れたくなかったんだと思う。


まもなくして
先生が亡くなったことをきいた時は、
幼いながら悲しくて涙が出た。


もうあの優しい先生と
お話することはできないんだ…
もう会えないんだって、
生まれて初めて直面した人の死に、
切なくて不思議な感情を覚えた。



『◯◯さん、私教師をやっていて
忙しくて病院に行かなかったこと、
検査を受けなかったこと
本当に後悔してるの。
だから◯◯さんはまだ若くても、
必ず検査は受けてね。』


母はその時の先生の言葉を、
その時先生と約束したことを
先生が亡くなって
40年近く経つ今でも大切に守っている。



次に身近な人を亡くしたのは
小学校6年生の時だった。
母の実家の隣に住む幼馴染だった。


いっつも明るくて親切で思いやりがあって、
私のことを可愛がってくれて、
血はつながっていなくても
親戚のような私を大事にしてくれる

優しい存在のお姉さんだった。



3人目の出産後すぐに産後うつになって
自ら命を絶ってしまった。

“うつ”とか“自殺”なんて言葉が
どう考えても結びつかないような、
人として本当にステキなところしか
見当たらなかったから


そんな人がどうしてそこまで
追いつめられなければならなかったのか、
と現実を受け入れるのに時間がかかったし、
悔しいし悲しいし喪失感がすごかった。


私以上に、大切な妹のような幼馴染を
亡くした母はもっと自分に
何か出来たんじゃないかと
自分を責めて泣いていた。


祖父母も大切な娘を
亡くしたかのように泣いていた。



20才の時に初めて肉親の死を経験した。

それは大好きだった祖父の死。

ありがたいことに生まれながらに
祖父母が4人揃っていてくれて、
祖父母たちからは多大な愛情を受けて生きてきた。


私は4人の祖父母に感謝しているし、
4人の祖父母が本当に大好きだ。


その中で父方の祖父は、
まだ70代の若さで、突然の別れを迎えた。

医療ミスだった。

もっと祖父と話したかったし、
なんなら今でも会って話したいと思ってる。


ハタチだったけれど、
病院で冷たくなった祖父と対面した時は、
祖父の遺体に抱きついて人目を憚らず泣いた。


実の娘ではない母も
私と一緒においおい泣いていた。

祖父を見るたびに想い出がバーっとよみがえり、
2人で泣いていた。


その時に初めてこの世の言葉で
説明が不可能な不思議体験をした。
その時の話はまた改めて書こうと思う。



それから私は目に見えなくても
祖父が守ってくれてると
心から信じられるようになった。


昨年は、その祖父の伴侶の祖母も見送った。

99才の大往生だった。

仲の良かった夫婦だったから、
祖父は見守りながらずっと待っててくれて、
きっと今はあちらの世界で
いろんな話してるんだろうなって思うと
顔がゆるんでくる。



3年前は母方の祖父も見送った。

祖父からは人がどう死んでいくのか
自然の摂理でみせてもらった。


お別れの時間があったから、
時間のゆるす限りは祖父に会いに行って、
大好物を持っていったり、
手作りの料理を食べてもらったり、
祖父への想いを伝えたり、
感謝を伝えたり、マッサージをしたり、
きいてみたかったこときいたり、


後悔のないようにといったら
少し違うかもしれないけど、
自分の中でできる精一杯をした。


だから別れは悲しくて
もちろん涙は出るけれど、
清々しく最後のお見送りをすることができた。



自分の一部をもぎ取られるような別れは
他の記事に書いたから、
詳しくはそちらを読んでもらえたらと思うけれど、

結婚したいくらい愛した元恋人の死。

絶望というものを初めて体験した。体感した。


人はいつかは亡くなる。

生を受けたら、いつかは死ぬ。

だから歳をとればとるほど
別れも多く経験すると思う。


ここまでは人との別れを綴ってきた。



じゃあ、自分は?

自分だっていつかは死ぬ。

それが明日かもしれないし今日かもしれない。


自分との別れだって(肉体の自分)ある。



ここからは人生で

2回死にかけた

私の話を書こうと思う。



1回目は19才の時、

原付バイクに乗っていて
車が突っ込んできて跳ね飛ばされたとき。


初めて息の吸い方と吐き方がわからなくなった。
原付は大破して半分無くなっていた。

地面に打ちつけられた衝撃で
ヘルメットもどこか飛んでいた。


その状態でよく生きていたかと思う。


走馬灯って本当にあるの!?

ってそれまでは思ってたけど、

本当それまでの人生が
スローモーションで上映されてた。


数日は全身が動かなかったけれど、
医師から死んでいたかもしれない、
よくこれで済んだことが奇跡的だよ
という言葉をきいて、
生かされたんだなあと
初めて体験した出来事だった。


そして、2回目は昨年の6月。

救急車で搬送され、
そのまま緊急手術、入院。


いろんな病院へ行っても
検査しても薬をもらっても
一年近くわからなかった病気が判明。


病理検査の結果、段階が一番最悪の状態で、
ギリギリだったと言われて
死んでいたかもしれないことをきいた。


やはりまた生かされたんだ
と思ったと同時に、


私にはまだ

この世でやりとげる使命があるんだ!

と感じ取った。


自分ではないけれど、

その4ヶ月後に今度は娘の病気が発覚。


今まで風邪もあまりひかないくらい
元気に育ってきたのに。なんで!?

何が悪かったんだろう。自分を責めた。


最悪の場合の話もされた。
目の前で苦しんでいる娘と
代わってあげることもできない。


自分の時と比にならないくらい、
つらかった。一緒に入院した。

毎日必死に娘を支えた。



おかげさまで娘は元気になり、

今は元のように
普通に生活ができるようになったキラキラ



私は今までの経験、昨年の経験から、

自分の人生で大切なもの
一番大切にしたいことが明確になった。



大半の人は

明日はあたりまえにくると思って生きてる。


だからあたりまえに予定を立てるし、

私もそうだった。


悲観的になれという話ではなくて、

そのあたりまえは


本当にあるの?


ということを考えてみてほしい。



今日家族そろって何もなく過ごせたことが、

明日も同じとは限らない。


としたら?


あなたは
今日、
“今” なにをしますか?


人に気を遣ってる時間

なんてもったいないし、


人に振りまわされて

人生終わらせてる場合じゃないよ!



【あなたは“今”
自分のいのちを
生きていますか?】


そろそろ“そのまんまの自分”で

“自分のいのち”を生きようよ!


“自分”を生きてるほど、

すべてがうまくいくし、
幸せに生きられるよ✨



私はいろんな

生死にかかわる経験を通して


目に見えない存在に
守られて生きてきたなぁと
今、実感できてる。


でも見えないものだから、

見える化したら

わかりやすいんじゃないかなと思って


あなたを応援してくれる

神様の御守りを

アートにしました✨


ぜひご活用してみてください^ ^


守られてるを実感して

安心して

“自分のいのち”を生きてね✨✨✨



【神様の御守りアート】

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