私は同性愛者ではありませんが、このコピペを愛しています
以上が問題の翔ゲイと言われるコピペですが、示したとおりこれには英語版の元ネタがあります。そして、一読すれば分かる通り、これは明らかに機械翻訳ではありません。誰か、ひどく才能のある人の手による訳に間違いありません。
例えば、「臀部を引き締めながら」「それが無意味なことを知っています」「私は怒りと切なさを感じながら」などは原文にはなく訳者の加筆であり、この短さで暗喩や含みの多い原文の隙間にこぼれ落ちた要素を、丁寧に拾い上げている跡があります。
また、”there will be a simmering erotic undercurrent”(そこにふつふつと沸く妖艶な底流、つまり二人の関係が帯びる微妙な熱であり、双方の内部で滾っていく精液のイメージに仮託して表している?)を、そこではなく「私は密かに腰の炎を燃やします」としてみたり、”anything is possible”(やろうと思えばなんでもできる、つまりテーブルで目を合わせるだけで、互いの思いは通じており、セックスをしようと思えばできたということ)を、「私たちは自分自身の内奥に潜む感情に、喜びを見出す暇もなく蓋をして」と訳出してみたり、 ”a brief missive”(ちょっとした手紙)を「ちょっとした詩」としたり、ドラスティックな意訳でありながら、原文の手触りを損なわないどころか、豊艶にしているようにも思えます。
加えて、この訳の最も感覚が鋭敏なところは、原文の時間の流れと人称の曖昧な変化を確かに追っているところにあります。
原文の時間は主に、
①木を切る男を見てマスターベーションをするシーン
②二人がテーブルで目を合わせるシーン
③一人が死に、もう一人が自殺するシーン
の三つに分かれていますが、この三つのシーンは「私」と「彼」を巡る人称の変化と一致しています。
①のシーンでは、「私」は「彼」を見つめるだけであり、まだ距離がありますが、そこからある程度の時間が経った②のシーンでは「私たち」とされることが多くなり、テーブルで目を合わせる二人の思いが言葉を介さずとも通じ合っていることと歩幅を合わせています。さらに③のシーンでは「私たちの一人」が死にます。この“One of A”のような言い方は日本語をはじめとする非インド・ヨーロッパ語族の言語ではあまり見られない言い方であり、訳者によっては自然な言葉に変えることもあるのですが、この訳者はしっかりと残しています。なぜなら、この③のシーンで死ぬのは、「私」か「彼」かということが明示されていない、というよりも、どちらでもよいように開かれているのが原文の肝だからです。
つまり、①で分け隔てられた「私」と「彼」は、②で渾然一体の「私たち」となり、③で自殺したのはもはや「私」でも「彼」でもない、「私たちの一人」でしかなく、だからこそ「もう一人」も自殺するしかないのです。
こうしてつらつらと書き連ねはしましたが、良い文章って語れば語るほどピントがずれていくような感じがします。他の言葉では置換できない、丹念に織り込まれた文章を分析してみても、レースのハンカチをバラバラにほどいてしまっているような感じがするのは私だけでしょうか。
最後に、よくこのコピペは文学と称されていることがありますが、大衆文学の直木賞を、純文学の畑の作家として受賞した、非常に稀有な例となった井伏鱒二に対する、久米正雄の選評を引用したいと思います。
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