レトルト文学カレー「漱石」をつくって

 料理のことを書きます、と前回書き終えてから何日経ったのだろうか。時は流れ、毎日はあっという間に過ぎていく。生きるというのは死に引っ張られるということなのを改めて感じる。この文章はラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」を聞きながら書いているので感傷的な書き出しになったのかもしれない。

 レトルト文学カレー「漱石」が店に着いたのは1月31日私の誕生日だった。息子に「父、何欲しいの?」と聞かれ「靴ベラ」と伝えたのだが、何ももらえなかったので、これが唯一のプレゼントだったのだろう。自分から自分への贈り物。この言葉に悲哀を感じる方もいるかもしれないが、私はこれをうれしく受け取った。

 構想から多大な時間が経ち、このカレーは出来上がった。1年はかかったただろうか。近代文学とカレーの歴史が近いこと。漱石に喜んでもらえるカレー。本屋さんでしか買えない。食べたら本が読みたくなる。本のような形のパッケージ。こんなことを1年間お客さんに話し、折に触れ文章にもし、盛り上がっていたのだが、膨大な時間が空回りしていたのだろう。

 馬鹿の定義は様々あるが、そのひとつに物事を滞らせる奴、というのがあるように思う。仕事を回しても溜める。判断が出来ずに思考停止に陥る。じっくり考えているようで実はボーっとしている。多すぎる選択肢にひるんで物事が決められない。みんな馬鹿だ。もちろん私のことである。

 馬鹿を克服する方法としては、脳みそと手を近くすることだ。思ったことを形にする、何かを作ることだ。私にとって、このレトルト文学カレー「漱石」こそ、初めて作った物かもしれない。居酒屋の主人でもある人間の言う言葉ではないが。

 カレーは四度の試作を経て製品になった。パッケージに至っては、なんどとなく修正をした。そこに載せる文章も書き直し、その下手さを妻にぼこぼこに言われ、張り裂けた心の修復には10日間も要した。ぎりぎりまで細部の修正をして私の手を離れた。そして届けれた完成品。大いなる喜びとともに、まだ悔いがあった。私にはまだやれることがあったのだ。

 失敗に学べというが、心を揺さぶられるような失敗をしない限り、人は学ぶことはできない。このことを、この年になってようやくわかった。遅すぎるが、死ぬ前で良かった。私から私の誕生日プレゼントは、見えないけれどもある、見えないからこそ大事な様々な物事で、それがレトルトともに送られてきたのだ。

 これを作り上げるにあたり様々な人の力をお借りした。斎藤さんの手がなければ実現できなかったのは当然のこと、デザインをしてくれた剱持さんにの力は大きかった。誰かと何かを作り上げる。こんなことも、この年になってようやく出来るようになった。

 最後に宣伝を。このレトルトカレーを是非召し上がってください。日本の古本屋というサイトで買えます。 https://www.kosho.or.jp/ 「文学カレー」と検索してください。遠方の方でもお買い求めできます。もちろんお店にも置いてます。なんとかして売り切り、第二段のレトルト文学カレー「太宰」をつくりたいと思っています。みなさまどうぞよろしくお願いいたします。



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