コクテイル書房の物語

 今から10年ほど前に「高円寺古本酒場ものがたり」という本を出版しました。大して売れもしなかったのですが、それなりに反響を呼び、様々な媒体に取り上げていただきました。

 棚ボタのように本は出ることになりました。古本関係の著作を多く持つ、荻原魚雷さんの処女作の打ち合わせに当店を使っていただき、その担当編集者の中川六平さんが「お前面白いな、本出してみろ」という一言で、私の本は出ることになったのです。なんの実感もなく、原稿を書き進めることもせず、日々を過ごしていると、ある日六平さんが「お前、ブログ書いてんだって、それコピーしてこい」と言われ、吉祥寺の「いせや」でコピーを渡しました。数週間後に店に来て「これ、ゲラだから、すぐに赤入れて俺に返せ」と。

 私のつたないブログのコピーがゲラという本になる前の段階の「原稿」になり帰ってきたのです。「作家と編集者との関係はボクサーとトレーナーのようなものだ」という三島由紀夫の言葉を信じていた私は驚愕で震えながら「ちょっと待ってください、書下ろしで書かせてください」と懇願しました。六平さんは面倒くさそうに「じゃあ三日で20枚書いて来い」と言い捨てて出ていきました。

 なんとか三日で20枚書き上げ、それを六平さんに渡すと、その場で目を通し「なかなか面しれえじゃねえか。もう3日やるから20枚書いて来い」と。こんなやりとりが何度か続き「高円寺古本酒場ものがたり」は形になっていきました。あれは私小説のようなもので「うそ」ではないけど全てが「本当」かと言えばやはりところどころが「小説」で、どこかを誇張したり美化したしています。あの本の中で、嘘偽りのない文章はたぶん一つだけ「あとがき」だけです。

 「あとがき」を読んだ六平さんには「ラブレターじゃねえか」と言われました。あの「あとがき」はそのころ付き合っていた、妻に向けて書いたものです。本が出版された日は2008年8月8日で、これは妻の誕生日です。臆面もなく、こういうことを書けるのも、年をとったからかもしれません。来年、結婚10年になります。永遠のような10年でした。妻といっしょになるまでの困難は、妻といっしょの生活をした困難に比べれば、なんともないことでした。しかし、私はこの10年の生活を経て、初めて生きる、というのがどういうことかわかったような気がします。

 以前出版した「高円寺古本酒場ものがたり」は生きながら心朽ちている、いわばゾンビの話で、今から私が書こうとしているのは、生きている私の記録のようなものです。

 西荻窪で本の出版を記念してトークショーをしました。相手は、なんと、角田光代さん。店でイベントをやっていただいた関係で、面識があり、恥も外聞もなく頼んだら、お引き受けしていただきました。百人近いお客さんの前でなんとか話し終えることが出来たのは、角田さんのリードと、途中から参加してくださった岡崎武志さんの優しのお陰だと、今はよくわかります。

 角田さんに関しては忘れられない思い出があります。「出版記念パーティーしましょう!私が幹事になるから」と角田さんが仰ってくださったのです。メールには、お自分の行きつけのお店を何店か紹介し、この店はピザが美味しい、騒いでも大丈夫、店長が本当に仲良しなんで無理が効きます、などとコメントも入れていただき、なんともありがたく、さてどこの店にする?と妻に相談すると「こんな本出したくらいで、角田さんにパーティー開いてもらうなんて100年早い。もっとちゃんとした本が書けるようになったらお言葉に甘えなさい」と言われ(たぶん、この後に喧嘩になったと思います)「すみません、友人が企画してくれているみたいなんで、折角のご好意ですが、すみません」と角田さんにはお断りのメールを入れました。

 今思えば、妻の言葉はもっともで、あそこで調子に乗ってお祝いされていたら、私はその事実に縋り、「あの角田光代さんにお祝いしてもらたんだぜ!」とそれを誇りにもし、今よりも安い男になっていたように思います。しかし、あの時はそんなことに思いも至りませんでした。

 「本を出すというのは、自分一人でできることじゃない、沢山の人間が関わってようやく出来ることだ。偶然何かを手にした奴はそれが持つ価値がわからない」と伊集院静さんが書かれていましたが、全くその通りで、六平さんの気まぐれで出た私の本と、そしてその後のちょっとした狂騒曲は、妻という存在がなければ、私を傲慢の峰にさらっていき、今でもその峰から下界を見下ろしていたかもしれません。しかし、その峰を見上げるものは一人もいず、傍らにも人はいない、大変孤独な場所なんだろうなと、想像はできます。

 

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