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良いことを、ここへ留めに


※この記事には実際の暴力の描写が含まれます
※一応飛ばしやすい構成にしてありますが、暴力と聞いて見に覚えのある方、特にフラッシュバックなどを抱えている方は、閲覧に注意してください。
 (閲覧する場合、飲み物を用意し、横になってご覧になることをおすすめします。)


 嬉しかったので壊れたレコードのごとく同じ話をしますが、こちらをふぇっぷく氏、偏見で語る兵器bot氏をはじめとした、ミリタリーファンと腐女子各位にご紹介いただいた結果、猛烈にバズって多くの方に閲覧していただけけました。ありがとうございます。(続きはもう少しかかりそうです……)

 自分自身の記憶を留めるために、この記事を自分なりに追跡した話をします。

「腐女子向け戦争」の追跡

 引用RT、記事本体のツイート、RT後のポストなどの、記事への反応を4000件強ぐらい手動で確認した。
 腐女子及びBL、同性愛、またライターが女性であることを煽ったり揶揄したりする反応は、0件だった。
 0件ということは、ひとつもなかったということだ。
 仮にそのような人が今後現れ、40人いたとしても、1%に満たない数字となる。

 昨今の相次ぐ時事報道に、思うところがある人は多いだろう。この数字はそういった報道と、真っ向から対立する結果になったことになる。
 いわゆるミリタリーファンは、圧倒的に男性多数の構成をしている。本の著者ももちろん男性が圧倒的で、女性の著者というだけで、読んでなくても記憶に留まるほど比率が違う。
 今回、記事に対して知識的な間違いや不足、表記の仕方の問題の指摘などはあったが、ライターの性別や嗜好を罵倒したり揶揄したりする意見は、ひとつもなかった。
 誰も彼も、単に記事の内容だけについて言及していた。なんとフェアな人々だろう。

この過渡期を生きて

 この結果には私自身がとても驚いた。驚天動地とまで言っていい。今でもにわかに信じられないぐらい、予想外だった。
 自分の今までの経験則と全く一致しなかったのだ。端的に言って、世の人々がそんなに良心的だと思っていなかった。私は割と疑心暗鬼に暮らしていた。

 全く意図せず、この短い人生で、時代の過渡期の目撃者になった。
 何が私に衝撃を与えたのかを説明するために、私自身の過去の話をする。
 ようは主観的に感じられる社会の激変を説明するために、「昔は悪かった」という話の具体例に自己紹介をしているだけなので、詳細に興味がない人はグレーの枠がおわるところまで飛ばして良い。

 今年32になる私の若かりし頃を思い返せば、90年代は地獄だった。
 何しろ体罰容認論がバンバン新聞に掲載された時代だ。そこに周囲の目が少なく、縁故社会の毛色が強い田舎とくれば、もう歯止めがかからない。

 母は、私に「男の子の趣味」をやめさせたがった。子供を矯正したがっていたのではなく、純粋に娘が暴力の対象になるのを危惧していた。
 そして1995年、母の危惧通り、私が小学校で体験した暴力は、落書き帳に怪獣を落書きしている事に端を発した。
 何が問題だったのだろうか?普通の女の子は特撮を見ないからだ。普通でない人はいじめても良いとされていた。中身は罵倒、唾をかけるなどの暴行、いわゆる村八分、器物損壊などだ。「気持ち悪い」「キモイ」は男子にのみ使われるのではなく、ようやく女子には使われなくなった暴言に過ぎない。フォークダンスの手つなぎ拒否もだ。

 こうして今思い返すと結構ひどいが、別に自分が特別悲惨な目に遭ったとは思わない。同じ境遇の人はたくさんいたからである。
 そう、本当にたくさんいた。被害者の多くは、言語化に労力を割いても、「自分語り」とか「ダサい」とか「男/女らしくない」とか扱われるから、私のように自身のバッドステータスを面白がる珍奇な者でなければ言い出せないだけだ。
 暴行を受ける理由は趣味だけではない。思い出せる限りでも、歌がうまいとか、運動が音痴とか、音読で詰まってしまったとか、靴下の折り方が違うとか、スカート丈が長すぎるとか、地毛の色がちょっと明るいとか、カエルを捕まえたとか、よくもまあ他人の差異をそこまで発見できるものだと感心するほど、ささいなことから起きた。
 当然のごとく校内は「学級崩壊」していた。

 しかも先述の通り、学校のいじめの上には、家庭での児童虐待が君臨していた時代だ。日本の児童虐待防止法は2000年まで存在しなかった。学校で叩かれても、家に逃げ込めればずっと幸運な側に入れた。
 いじめと同じぐらい、虐待を目撃することは容易かった。学校に保護者が来訪すれば、目の前で堂々と厚生省の虐待の定義がぶっちぎられたのである。
 私自身の家庭について言うと、両親のレアリティが両極端な、複雑怪奇な家庭で育ったので、運が良かったとも悪かったとも言える。
 実体験として得られたのは、学校で同級生に殴られても、同じ年の子供で、素手同士の1on1なら、一発は耐えるという、明日使いたくない情報だ。一方就学したばかりの子供が成人男性に、すなわち女児だった私が異常な父親に殴られると、乳歯が折れる。自分の右の上の犬歯がどこに飛んでいったのか、ついぞ知らない。
 異常な方の親の悪行を教員や関係機関に訴えたが、警察沙汰にもならなかったし、福祉の介入もなかった。そういう時代だった。児童虐待を描いた漫画の「凍りついた瞳」が雑誌に出たのが94年のことである。つくづく私だけではない、私だけではなかったのだ。それゆえに、児童だった私は「異常な親」を「よくあるもの」と舐めていた。幼いながらに最悪のときは自力救済を実行する決意をし、当面の解決を諦めた。その結果どうなったか?この既往歴である。
 幸運にも、正気の方の親のおかげで、不登校は許された。学校の暴力からは逃れることができた。そうならなかった子どもたちがどれほどいたかと思うと、本当に良かった。同級生が暴行してくる教室で勉学を身につけるなど到底不可能である。

 なかなか陰惨な幼少期を送ることにはなってしまったが、2000年代から、世界が変化していくのを、子供ながらに感じるようになった。
 男子(稀に女子も)に廊下で襲撃され殴られる事態も、中学の受験前を最後に、以降は起きなかった。

 正気の親のおかげで大学に入って、初めてまっとうな異性陣と、友好的な関係を持った。
 人生を変えるできごとだったかもしれない。この経験がなければ、自分の知る数少ない異常者で、異性のイメージが固まっていた可能性は高い。自分がとんでもない危険地帯を綱渡りしていたことに随分後になってから気づき、末恐ろしくなった。人間ガチャは残酷なほど運ゲーである。
 ……が、現在まで異性とも同性とも、全く恋愛関係に至らなかったことは一応補足しておく。理解のあるカレピもカノピも、ないところには無いのである。
 それにかけても友情は偉大である。大学卒業の年まで未診断だった私は、相当な変人だっただろう。根強く交流を持ってくれた人々には感謝しかない。

 だが、問題は残っている。困ったことに、己にいったん身についた野蛮な価値観はなかなか覆らない。
 再生産の引き金に常に指がかかっている状態だ。自分の中に暴発の不安は常にある。
 (というか書いてて気づいたのだが、これはもしかしたらPTSDなのかもしれない。どうも暴力についてだけ記憶が鮮明すぎるというか、むしろ暴力以外の記憶が著しく不鮮明だ。上履きが捨てられていた時や、異常な同級生が殴りかかってくる5秒前ぐらいから、脳裏に録画のように再生できる。)

 弊害はまだある。こんな感じで感覚が麻痺したせいで、今の御時世に差別が問題になるのは、奇妙にすら感じる。
 例えば、天保まで先祖を遡れるガワをして日本語母語話者の私が、帰国子女を理由に「ガイジン」と呼ばれたのだから、他国から来た人々に残酷に接する愚かな人類がポコジャカ湧くのは至極当然だ……と思ってしまうのだ。
 要するに、なぜ起きるであろう暴力を想定できないのかが、感覚的に理解できない。これはうっかりすると「甘えるな」に通じるので危うい。

 育ち悪しき者が、暴力を経由せずに来た人々に感じる隔たりは大きい。虐待生存者が他人に「本当は親だから愛しているはず」と言われて苦しむのは、今も昔もある話だ。
 もっとも、児童虐待事件の現実が報道されるようになり、この手の言動が激減したのも、同じように時代の変遷として感じる。昨今はむしろ、理解し合えない親とは距離を置くような話のほうがよく見る気がする。ありがたい話だ。

 

 ……とまあ雑多にいろいろあったが、特に印象深かったのが、2013年「パシフィックリム」だ。
 当時筆者は大学生で、映画館には男女数名のグループで見に行った。
 1995年に6歳の女児が「普通の女子は特撮を見ない」という根拠ない迫害の原初体験をしてから、18年経っていた。
 特撮は、単に特撮が好きな人のものになっていた。

 そしてついに26年目の今年、最初に書いた結果がもたらされた。
 一体全体、何が起きたのか。
 まるで異世界だ。今までの人生がウソだったようにすら思える。過去と未来は、ほんとうに地続きなのだろうか?もしかしたら、私は記憶だけを持って5分前に生まれたのかもしれない。
 あるいは、悪いサーカス団の監禁から開放され、初めて芝生と土を踏んだ猛獣はこんな気分なのだろうか?

なにがなにを変えたのか

 感激してみたものの、何がどうなってこうなったのかは、わからない。
 「インターネットの礼儀正しい人々」という、好ましい結果だけが目の前にある。

 素人なりに考えてみると、「繰り返さない」人々の増加があるのではないかと思う。
 女子が男子から安易に暴力を受ける世界では、男子間の暴行は戦慄するほど激化する。私がオタクの女性を理由に迫害されていた頃、オタクの男性への迫害も凄まじかった。これは実際に真横で、オタク趣味の同級生が何人も迫害されていたので断言できる。恐怖の時代は間違いなくあった。

 しかし、先の記事を回覧してくれたオタクコミュニティの中では、野蛮な行いは繰り返されなかった。先述の通り、ミリタリーファンの構成は男性が圧倒的に多い。
 実は記事の拡散の様子も時間の許す範囲で観察していた。腐女子向けと銘打ったにもかかわらず、腐女子各位に届くまで、記事は何度もミリタリーファン各位を経由していた。もちろん逆パターンもあった。
 これらのことは暴言0件の素晴らしさをより雄弁にしていると思う。

 人間がツイッターをするほど大人になるまでに、一般的にどの程度の暴力を体験するのか、わからない。わからないことだらけだ。だが世界を隔てる霧を潜った向こうから、突如現れた結果が物語ることもあると思う。
 誰かが不幸な連鎖を止めた。
 それは当事者かもしれないし、親や教育者になった人々かもしれない。だが一人二人ではない相当の数の人々が、垂れ流され続けてきた理不尽を堰き止めた。
 旧来的な価値観を省みると、腐女子と明記した記事を回覧するのには勇気が要った、という男性もいるのではないだろうか。特に私の同年代以上の人には、「リアルな知り合いに腐女子は一人もいない人」もいたと思う。
 同じように、軍事や歴史、BLの趣味を、まだネットの外には明かせないという女性もいたのではないか。

 単に「暴力の再生産をやめる」というのは、解決手段としては、婉曲と思われるかもしれない。
 だが私はその選択をした人を尊敬する。
 被害者から加害者に転じないのは、本当に勇気が必要なことだ。現代社会において、憎悪と怨恨が際限なく拡大することを、否定できる人はいないだろう。暴力に慣れた時、自分自身が恐怖を感じない行いのハードルは限りなく下がる。一度麻痺した感覚の、暴発への不安は長く残る。もしかしたら一生消えないかもしれない。
 だからこそ、繰り返さなかった人々のことを思い出したい。
 語られざる「なにもしない」ことを選んだ、勇敢な人々がいたことを、私は覚えておきたい。
 もし「そうしてきたけれど、そんなこと意識していなかった」という人がいたら、その敢闘を讃えて祝杯を上げたい。
 「見物の野次馬に石を投げられる」が前提の社会のままでは、「誰も助けてくれない」が問題視される日は永遠に来なかった。

よかったことを覚えておきたい

 時間はどんどん過ぎていく。
 だいたいいつの時代も、変化するほうに向かう人々と、変化を拒む人々の双方が流動的に存在しきたが、現代の潮の流れは早すぎる。白か黒かに分断できない物事は、我々の認知と極めて相性が悪い。単純に、構成が複雑すぎる。しかも変化速度が早すぎるので、おそらく今後も理解できないまま過ぎていく。
 社会をより良くする話はこぞって為されている。しかし我々が理解の追いつかない変化の最中と、どう向き合うべきか、私は知らない。なにせ、今回初めて「自分が過渡期の中にいる」と思ったぐらいだ。

 現代社会で入れ代わり立ち代わり現れるのは、激動する混沌だ。鉄砲水のように流れゆく怒りと悲しみ、心かき乱す情報を前に、この世界を憎悪せずにいるにはどうすればよいのだろう。この場で答えを出すことはできない。
 だが擦り切れてダークサイドに落っこちそうな時、もう一度誰かを信じるためには、少なからぬ希望が必要であるように思われる。いかにすれば、「百万回裏切られても、優しさを失わずに」いられるだろうか。私達の中から、現実の世の中を前にして聴衆に「それでもなお!」と叫ぶ者は現れるだろうか。
 この話は著名人の雑な発言の影響力に比べると、吹けば飛ぶような数字で、とてつもなく小さな社会の出来事だ。人の社会や善性の全てを肯定するほどの説得力はない。
 それを言葉にして記録に残したいと思った。

 自分自身のために。忘却に押し流されないように。
 使う日が来ないことを祈りながら、きたりしとき一縷の希望になる可能性にかけて。
 ここに「よかったこと」を記録しておく。

 性と趣味を揶揄しない人々が、4000人いたこと。







 全く関係ないですが、トップ画像の双頭のセキセイインコは、東インコ帝国や神聖インコ帝国のシンボルとして使われたことで有名です。(冗談です)

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