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分からないということ

シネヌーヴォでキアロスタミ特集を見た。
「友だちのうちはどこ?」から始まるジグザグ道三部作。仕事次第だが、「桜桃の味」はなんとか観れそう。
今日も最高の映画館に感謝。

どの作品も素人の役者を起用し、ストーリーはとてもミニマムで単純明快。3作どれもイランの小さな町で明確な目的、意志を持った主人公が走ったり、車を運転したり、女の子に愛を伝えたりする。ほとんどそれだけの映画だが、それでも映画は抜群に面白く撮れることを示してくれる。

カメラのフレームに収めている部分よりも収められていない部分で何が起こっているのか、音や演者の表情で観客に想像させる。それにより、物語は驚くほど広がりを見せ、なおかつそれぞれの観客固有のものへと変化していく。

映画を見ている間、観客はカメラに収められていない部分に関してはほとんどが"分からない"。想像に任せるしかない。現実生活では"分からない"ことはほとんどが恐怖、疑惑などマイナスのイメージがつきまとう。自分の前では笑顔を振りまく彼女は自分と会っていないところで何をしているのか、どんな人と会ってどんな会話をしているのか。親しい友人は自分と会話をしている時に何を考えているのか。不安になったり、疑念を抱く自分に対して嫌悪感を抱いたりもする。それでも"分からない"ことは分からなくても良いし、そのまま受け入れることが逆に面白さに繋がるのではないか。"分からない"こと自体を楽しめるのではないか。監督の映画たちはそんな分からないことだらけの自分に励ましの言葉をかけてくれているように感じたりもする。

年始にスパイダーマンの新作を見た。近年のmarvel作品を見た際に、多くの作品で抱いた疑念ではあるが、果たして映画は観客の期待に応えるべきなのだろうか。ファンの期待に沿って作られた映画には一体どれほどの価値があるのか。

キアロスタミ監督の作品では逆の働きかけを強く感じる。作り手側が観客の想像力に対して全幅の信頼を置く。期待をしてくれている。だからこそあえてフレームの中に映さない、余白をしっかりと残す。そこにあるどこへの忖度も感じられない作り手と受け手の相互的な関係に僕は強く悦びを感じる。

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