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なぜ「障がい福祉」という「仕事」を続けているのか ①

第1章「 親亡き後は突然訪れる 」

今回も児童を担当して学んだことをご紹介します。
こちらの方では、「親亡き後」、を、本当に考えさせれました。実際には亡くなっていないのに、このように書くのは大変失礼かもしれませんが、早くから考えておくことの重要性を教えてくださったと思います。
そして、この仕事を続けると覚悟を決めたケースでもありました。

(注)今回も内容は個人情報保護のため、多少フィクションに変更している部分があります。ご了承ください。

【 唯一の介護者が病に倒れた 】

ご本人(以後Bちゃん)は、まだ出会った時は2、3歳でした。21トリソミー(ダウン症)のお子さんで、聞けば生後7ヶ月までは、多少の発達の遅れはありつつも、寝返りや座ることもでき始めていたそうです。

しかし突如としてBちゃんは、座ることもできず声を出すこともできず、口から物を食べることもできなくなりました。

原因は「乳製品アレルギー」
そう、粉ミルクでアナフィラキシーショックを起こしたのです。

救急車で運ばれたものの、低酸素脳症となり、鼻からチューブで栄養(ミルクアレルギー用の粉ミルクMA-1)をとり、気管切開をして呼吸を助け、痰吸引をするため声がでない、寝たきりとなりました。体も硬直して座るどころか、首が多少左右に動く以外できなくなりました。

入院は1年以上におよびました。

Bちゃんのミルク注入やチューブの取り替え、痰吸引は病院で指導を受けた母がほぼされていました。父は仕事が忙しく、Bちゃんの吸引などしたこともなかったそうです。

Bちゃんには兄弟がいましたが、母はBちゃんにつきっきりのため、寂しい思いからか登園拒否など、母に甘えたくてしかたない。
Bちゃんが退院してからは、兄弟の甘えはいっそう強くなり、母にベッタリでした。登園も安定していません。
そりゃそうですよね、まだ園児です、母が1年近く家にほぼ居ない‥少しでもそばにいたいはずです。

しかし、今度はそんな母が血液のガンになり入院してしまいました。どれだけの入院になるかわかりません。少なくとも1ヶ月で帰ってこられるような状況ではない。
一家は大パニックとなり、地区担当の保健師さんから支援依頼がきました。

ここから、私はご家族の支援に入らせていただきました。

【 母は不在でも家族の生活は続く 】

「大学病院で産まれて、ダウン症で色んな検査をしたのに、なんでミルクアレルギーの検査はしてくれてなかったのかなぁ。そしたらBはこんなにならなかったのに。」

父はさっぱりとされていて、少々大丈夫!的な雰囲気ですが、ふと上記のようなことを何度かおっしゃられてました。

人生を巻き戻せないことはもちろん父もわかっている。けれど、何かのせいにしないとやってけないですよね?誰も悪くない、悪くないからこそ誰も何も責められない。やり場のない悔しさ。
重く暗くしててもしかたない、明るく前向きに、そんな印象でした。

さて、当たり前ですが、母が入院してもBちゃんは日に3、4回のミルク注入、オムツ換え、痰吸引など、日々の生活は変わりません。

私に連絡がきた時は、祖母が彼女のお世話をされていました。しかし、なんと祖父もガン治療中というではありませんか。祖母は二人の介護をしているという。しかも、祖父のことや、Bちゃんを一人にできないので、買い物などのちょっとした外出すらできず疲弊しているとのこと。

保健師さんと共に訪問するため、父に連絡すると意外や意外「大丈夫じゃで?何しにくるん?まあ、来るのはええけど、わし休みほとんどないけんなぁ。」明るくてさっぱりしとられる。

いやぁ、ポカン‥としてしまいました。
本当に困っているのかな?

いやいや、この目で確かめないと!

【 「大丈夫」ではなかった 】

やっとこさ父と予定が合い、自宅に伺えました。
得意?の馴れ馴れしさと、「ど岡山弁」ですぐに父との距離は縮まりました。

Bちゃんはリビングの大きな窓の真横にベビー用の布団に横になっていました。
まずこれに驚いた。真夏だったので、ガンガン陽が当たっている。そばによってみるとめちゃ暑い。
なぜにここに‥

父と話をしながら、しれっとBちゃんを観察。首は汗疹、オムツはパンパン、汗をかいて額に髪の毛がくっついてる。たまたまオムツ替えに立ち合えたのですが、オムツかぶれもありました。

私「塗り薬は?」
父「いらんいらん」
私「鼻管をとめてるとこのかぶれも?」
父「ずっと貼っとるけん仕方ない」
私「ミルク意外に白湯や赤ちゃん用むぎ茶は?」
父「いらまぁ」

んー‥

私のここでの疑問
主治医は日常の状況を知っているのか?

となれば動きます。すぐに地域連携室的なところに連絡、主治医と会って話がしたいと伝えました。
断られる覚悟で連絡してます。大きな病院では大体連携室の相談員や看護師が、窓口&主治医との間に入り、直接医師と話せることは少ないからです。

粘りに粘って、「父が了承すれば、次回受診日に診察室で主治医と話すことはできます。」となりました。

父はあっさり了承。
私は当日までに、福祉課担当者と支所担当者、保健師、訪問看護、訪問リハビリ、などの関係しうる方をかき集めました。←言い方失礼、ごめんなさい。

当日、診察室でケア会議。
さすがの人数に父は驚いてましたが、「どしたん?よーけきたんな、まぁええけどはよ終わらして。」

あらかじめ主治医に生活状況、諸々の導入、来られなかった技師に連絡をとり、座居保持イスの設計し直しをしたいことを伝え、今度は医師から父に伝えてもらいました。もちろん医療的なことは主治医が決めることであり、私が口を出すことではありません。

しかし、主治医は「私から何をどう伝えましょうか?」とても協力的でした。本当にありがたかったです。

Bちゃんチームが動き始めた !

訪問看護→身体状況やSPO2、内服や爪切りなどの報告。絵本の読み聞かせや歌を歌ったりもしてくれました。

訪問リハビリ→硬直や緊張を緩め、体を動かしやすくする。男性だったので、父と話もできていたようですし、効果がでてきて父も喜んでました。

福祉課、保健師、私、は、交代で訪問して生活状況の確認。ほぼ私ですが 笑
自分が見ないと納得できないたち。

【 実はネグレクト案件だった 】

ここまで読まれたら、専門家の方ならすでにお気づきかと。福祉課が2ヶ所以上入る、、虐待案件として私に連絡がきていたのです。

みなさん、読まれてきてどう思われますか?

私はネグレクトとして対応してません。
父、育児放棄してますか?
受診してますよ?
やれるだけのことしてません?
兄弟のこともあるし‥
仕事もしないと、みんなの治療費‥

父がいっぱいいっぱいなのは一目瞭然。
完璧にできるわけない。
手がたりない、時間がない、わからない‥

誰がどう見てネグレクトとして連絡してきたのか。
私が父ならもっとできてないと思います。いや、倒れてます。

【 ずっと家の中だった 】

Bちゃんは受診以外ほとんど外にでていませんでした。父としては大変なのもありますが、公園であそべるわけでもないからとのこと。

私は療育を勧めました。
同じくらいの歳のお子さんの輪の中に「居る」ことだけでも意味はあるはず。声を聞き、他の子を見て欲しい。

通いはじめると、声のする方へ顔を向けそちらをみる。時折ニヤリと微笑む。やはり意味はあった。よかった‥
勧めたのに「何もかわらないじゃないか」言われる覚悟だったので。

【 母は無事退院したけれど 】

そうこうしているうちに、めでたく母は退院されました。

が、なんと、入院前と逆転。
兄弟の面倒はみるけど、Bちゃんの世話は父とに任せるように。
それを否定しているのではありません。両親で決めたことならそれでもいい。ただ、「今後はBのことは父に全て連絡を。書き物も父に言ってください。」何か変化があったのでしょう。

後にわかったことですが、「自分はまたどうなるかわからない。今は父が父のやり方で世話している。口をださずに任せた方がいいと思った。」と、母は考えていたのです。

自分が居なくなったあと、、
当時はまだ4歳くらい、そんな幼い子を残してしまう時の事を考える。とても辛いことです。けれど、Bちゃんに限らず基本的には親が先に逝きます。その時、それでも残された当事者が安心して生きていけるよう考え、できれば備えておくことは重要だと思います。

これは障がいや病気があるない関係なく、どこの家庭でもそうだと思っています。

もちろん簡単なことではないけれど、「親亡き後」は、ゆっくり話せる時に、親子共々考えておいて欲しいテーマです。

Bちゃんのように、両親が話す間もなくそうなる可能性がないように‥

やっぱり長いですね。
次回は「障がい児、思春期の性」についてのケースをご紹介&問題提議したいと思います。

さて、どう生きよう。

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