なぜ「障がい福祉」という「仕事」に辿り着いたのか ④
第4章「児童の相談は保護者の相談」
【 まさかのご指名 】
初めて児童の相談を受けたのは、就職してさほど経ってなかったと思います。連絡をくれたのは、当時すでに障がい分野で名を馳せていた人(以後A氏)。
なぜ私に依頼されたか、は、いまだ謎です。
一つ言われたのは、「お子さんがおられるお母さんだから、その子のお母さんが相談しやすいと思う。」だった気がします。
確かに当時私の身近には、子育て経験のある女性相談員は少なかったです。
当事者のお子さんは「知的障がい+難病」本当に珍しい病気。私自身A氏に言われて初めて知ったくらいです。
まずはA氏と共に自宅へ訪問しました。
本人と会えるものと思っていた私は、保護者の言葉に驚きました。
「あなた方が言った言葉に反応して、それをしたい、それが欲しいと言い出すかもしれない。そしたらそれをやらせてもらえるまで、何時間も言い続ける。だから本人とは話さないで欲しい。」
会わせてもらえませんでした。
ただ、保護者が疲弊しているのも事実でした。
その日以降A氏からこの件を引き継ぎ、一人での対応となりました。
課題は山積み。
①支援学校のバスにのらない
②ルーティンは崩せない
③ふらっと家を出てしまう
④家(学校でも)で暴れる、閉じこもる
⑤家族が限界
などなど‥
優先順位をつけようにも、どれも日々同時に起きている。
さて、どうするか‥
【 制度に違和感を感じはじめる 】
そんな中、学校で皆で集まって話し合いをした。色々案はでるが、私は「制度上難しい」と何度言ったことか。先生も保護者も「なんで!」となる。そりゃそうだ。当時はそもそも大人より子どものフォーマルなサービスは少ない。その上制限も多い。
もう、この辺からもどかしいやら情けないやら‥
制度って使ってる人の生活に見合ってるのか?と疑問がわいてきた。
①については、当時の職場を辞めた今でも思うんです。制度やサービスは実情に追いついてないなぁ‥と。
なぜなら、通勤・通学については福祉サービスはつかえません。もうこれ、本当に法律とか市町村独自のサービス作ってる人、なに考えてんの?なんで?たまに出かける余暇活動には使えて、毎日の仕事や通学に使えんてなに?
仕事も学校も行けたら過ごせるお子さんもいるのに。でも、「行くまで」で困られてる保護者の方、めちゃくちゃおられる。
私の次女もメンタル的に弱く、保育園の年長だった頃、嫌なことがあった次の日は泣いて泣いて「行きたくないー!」車にも乗りませんでした。何とか連れて行っても車から降りずに、駐車場で何時間も説得したり。こういうの、1週間とか1ヶ月とか続く時は続く。もうしんどいのなんのって。そりゃそうです、子どもは行きたくない、私は仕事に遅れる(いやすでにいつも遅刻してた)から焦る、けど怒っても解決しないからとにかく話を聞いて待つ。
幼い子どもならこれを家族がした方がいいのかもしれませんが、中学生以上なら社会資源と繋がって、本人が家族以外と何かできるきっかけとなるなら、サービス使って登校の何がダメなの?
いつまでも保護者が一緒にいられる訳じゃない、家族以外に頼って生きていく時期は必ずくる。大人になってより、子どもの頃の方が慣れやすいこともある。
その人のライフステージや、人生に合わせた制度になってるの?
【 支援の方向性 】
少々脱線しましたが、文句を言っていても何も進まないので、 私は考えに考えインフォーマルな、つまり、制度ではなく「手伝ってくれる人」を探しました。一旦離れたA氏にも再度協力を依頼した。
行政で子どもに関わる担当課で熱心な方と繋がり、まずは私を含め母の緊急連絡先を3人確保。そして、警察にも相談し何かの時は駆けつけて我々を待って欲しいと依頼しました。
警察というと、大袈裟、こどもを悪者にしていると思われるかもしれませんが、誰より早く駆けつけられるのって、誰だと思います?この子は暴れたら扇風機やもっと重い物を投げます。逆に押さえつける保護者がこの子に馬乗りになり、殴りそうなのを堪えている状況。被害者も加害者もだしたくない、早急にそれ以上にならないために警察にも入ってもらったのです。
そして、対応策を考えるのにそれ以上の方に協力してもらいました。使えるサービスのなかで、その子を定期的に受け入れられる事業所も探しました。
色々な機関や民間の方にご協力いただき、毎日ではなくても登校はやや安定。短期入所というサービスを利用し、親子でお互い距離をとりレスパイトできることで、いったんは落ち着きました。
【 課題は次々やってくる 】
必ずしもベストではなかったと思いますが、何とか高等部への進学が見えてきました。
が、高等部は「原則自力通学」という決まり。けれど、訳あってご本人は自転車に乗れませんし、公共交通機関も使えません。正しくは「乗れるようになったら困るから」と、保護者の意向でどちらも練習却下だったのです。
けれど、とても徒歩で行ける距離ではありません。
そんな時、起こってしまったのです。
とある日曜日ご本人が猛烈に暴れ、保護者が馬乗りで押さえつけ殴ってしまった。「今子どもの上に馬乗りになっている。もう無理。」私とA氏で連絡をとりつつ警察にも通報。我々が到着した時には両者とも落ち着いていました。
私はお子さんの担当をする時には、ある信念がありした。
細いクモの糸でも繋がっているのなら、なるたけ引き離す対応はとりたくない。
けれど結果、ご本人は措置入所となってしまいました。まだまだ私には力はなく、児童相談所などの判断で決まってしまいました。
ご家族は「ホッとした」と言われてました。これも本音だし決して悪いことではない。日々のこと、我々にはわかることのできない苦しみや葛藤を抱えていたにちがいない。週末は自宅で過ごせると本人を説得し、本人は徐々に施設で落ち着いて過ごせるようになりました。
措置のため、全ての福祉サービスは使えなくなりました。私も計画相談(プランナー)はできないので、基本相談となりましたが、何もスタンスは変えませんでした。私は本人と保護者、どちらの安心先でないといけない。なので、数ヶ月に一度保護者と関係者で学校に集まり、現状報告と進路など定期的な意見交換を行いました。
高等部も措置継続となり、保護者も本人もその生活にすっかり慣れていました。
高等部進学と同時に、進路や入所施設やグループホームの見学をすぐにはじめました。
ここで、出てきた課題。
C―PAPの着脱を「医療行為」ととらえる施設と「医療行為でない」ととらえる施設とがあったんです。ゴムをうまくはめられないので、そこを手伝って欲しいだけ。機械のオンオフやずれたのを直すのは本人ができる。
とある施設の知り合いは「それのどこが医療行為なのかわからん」、私も同じでした。
が、これまたできないものはできないので、できるところを探さないといけません。
卒業後の生活拠点を探し待機登録を済ませ、後は進路どうなるかな‥と思っていた私に、保護者から別の相談がきました。2年生の実習を受け入れてもらえなかった、3年生も難しいと言われた。と。
卒業3ヶ月前ですよ?
進路が決まってない?
まさかの、移行支援会議の資料の進路は空白。
まさかまさかの私も進路探しを行うことに。
保護者は不安でたまらない。当たり前です。何より、本人の人生どうなるの?
学校を非難している訳でも、悪く言うつもりもありません。先生方も多くの生徒さんの実習先や進路を探しているのですから、受け入れ難しい生徒さんで悩んでおられるでしょう。
でも、でもです、進路決まりませんでした。自宅以外の生活拠点もきまってません。
ご本人は日々の活動(仕事)先も決まらず自宅に戻るの?
相談を受けた当時に全てが戻りますけど?
なにより、何度も母から聞いた言葉を忘れたの?
保護者の唯一の願い、、
「卒業と同時に家を出て欲しい。この子がでないなら、私(母)が家を出ます。お願いです、入所先を探してください。」泣きじゃくりながら会うたびに言ってました。
【 何とか探した本人の居場所 】
措置入所先に頼み込みました。入所も実習も。
もはや、先生がするべきとか、あなたがすることじゃないやりすぎ、なんて言葉を私に言う人の声が鬱陶しかったです。誰でもよくない?私はほっとけないから動く。あなたがやるかやらないかは、あなたが決めればいいよ。
当初は何度も何度も断られました。
けれど、最終的に受け入れてくれたのです。
もう何年も前なので、今ご本人やご家族がどうされているかはわかりません。
私の支援が正しかったのか、本人の人生にとって少しでも前に向くことができる支援だったのか、今でもわかりません。
けれど、あの時の私にできた精一杯だったのです。
お子さんが自分でやりたいこと、どこでどのように生きていきたいか、これは保護者の意向も大きく関わります。我が子が心配だからこそです。けれど、私は思いを伝えるのが困難なお子さんの気持ちも少しでもわかれる支援者になりたい、そう思った事例でした。
ご本人とご家族が少しでも、幸せに生きていてくだされば、それだけで私は嬉しいです。
どうか笑顔で過ごされていますように‥
( 注 )個人情報保護のため、多少フェイクであったり、内容を変えてあります。ご了承ください。
またもや長くなりました。
お読みいただいた方、ありがとうございました。
さて、どう生きよう。
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