毒と疾走
とても楽しみにしてること
とても集中してノリに乗ってること
とても悔しくて負けたくなくて衝動的に追い込むこと
そのどれも、疾走状態にしてくれる。
発端は、ワクワクするようなポジティブなことばかりじゃない。ヤバイっていう焦燥感や、なんでやねんっていう怒りや哀しみのことのがむしろ多いかもしれない。
どちらの場合も、このままの状況に甘んじることを本能的に許せなくって、気が付けばマグマのようにエネルギーがでて疾走してる。
このエネルギーは、欲望なんだろうか。毒気を帯びた欲望のようなもの。
心理学や哲学を勉強してると、怒り、妬み、愚痴は「毒」として扱われているように思う。
社会化されていって、前頭葉が成熟していくと、この毒をできるだけなくそうとしたり、あたかもないように振る舞ったりするのを覚えていく。
毒を隠すだけじゃなくて、そもそも心の中から取り除くことを目指していく宗教や精神医学もある。
本当に、そんな毒気から完全に解放される日はくるのだろうか。
そして、そもそもドロドロの毒が自分の中から完全に消えるのを望んでるのだろうか。
その毒こそ私なんじゃないかと感じることがある。
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ドロドロの毒は、他人を傷つけたり疲れさせたりするから、皆しまってる。でもそうやってずっとしまって溜めていると、ジワジワと自身を蝕む。
だからたまには何らかの形で昇華してる。その一般的な昇華法が、怒り、嫉妬、グチとかそんなものなのかもしれない。
でもあまりにたくさん怒ってきたり、嫉妬してきたり、グチをきかされると、うんざりきてしまう。
それがわかってるから、理性的で賢明な人たちは自己処理するようになる。そうした方が人間関係が円滑に行くし、コミュニティの中でも成熟された大人として認めてもらえるしね。
自己処理をうまくできるようになっても、あるときふと思い出す。
それでもやっぱり、きっとどこかで、それを誰かに受けとめてもらいたい。そんな毒も一緒に認められたい。そんな自分もいることを。
もっとも近い人にこそ毒も含めて受け止めてほしい。
けれど、むきだしの毒を近くで浴びるのは致命的だったりする。もっとも近しい人をもっとも遠くにやってしまうことさえあるかもしれない。
そして毒から得たエネルギーで、ひとり疾走するようになる。
自分の毒は、自分でしか分解できない。エネルギーに変えれない。
この毒が、狂気に変わりそうになるとき、破壊に繋がりそうなとき、せっせとエネルギー代謝してまた走る。
気が付いた時にはもう元に戻れないくらい遠いところに来ていたとしても、きっとそれが運命なんだと思う。
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