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幸福学シンポジウム

幸福学シンポジウム2017というイベントにいってきた。その登壇者の一人である稲葉俊郎先生のお話が、すっと胸にしみたので、ここにのこしておく。

「幸せ」とは、ほかならぬ「わたし(自分)」が感じるものである。他の誰かが「幸せ(幸福)」と感じていることと、「わたし」が「幸せ」と感じるものは全く別のものであるが、混同されやすい。

一般的には、誰かの欲望がコピーされたものを「幸せ(幸福)」と思いこむ(思いこまされる)ことで人生の大半を使っている場合が多く、その場合は持続的な深い「幸せ」という感覚は生まれてこない。

「わたし」の感受性を取り戻すことで、自分だけのオリジナルな自分自身の人生が始まり、その延長線上にからだ・こころ・自然が生み出すいのちの声としての「幸せ」という感性は生じる。

「わたし」の感受性は、からだ・こころの身体症状や病、人間関係、そして人間の生老病死というプロセスの中で運命的に向き合わされることで、否応なく直面させられる仕組みになっている。

仏教では「幸せ」を「安心(あんじん)」と呼んだ。心が安定することこそが、幸福な状態なのである。心身一如であるため、心=体が安定することが、「安心立命」につながる。

自分の外の世界(人間関係、社会)と内の世界(からだ・こころ・いのち)とを調和させていく日常的な練習こそが、「からだ」「こころ」「いのち」の自然な声としての「幸せ」という感覚に気づき、思い出す土壌になる。

外の世界との対話、内の世界との対話、それぞれを通じて調和をはかっていく。これをサポートしていくのが、とても広い意味での医療とも言えるのではないかなあと思う。自分もそこに関わり続けていきたい。

わたしにとっての幸せは、安心して今ここにいられる瞬間かもしれない。そして背骨の付け根がジワっとあつくなるのが、わたしなりの’幸せの指標’である。

心(思考)と身体を先生として、自分の幸せの感受性を磨いていこうと思う。そして、人が本当の本当の幸せに気づいていくお手伝いを、もっとたくさんできるようにしていきたいな。


p.s.写真は兄から「ゆりやんレトリィヴァ・・」という題名で送られてきた幼少期のわたし。ファンの方ごめんなさい、でも少し似てると思う。


thank you as always for coming here!:)