アキラメと気付き

会社員をしているときに、その年代の中でトップクラスに優秀な先輩がこう言っていた。

皆社長になって世界を変えることを夢見て、この会社に入る。ゴールはそこだ。
でも結婚して家族ができたり、仕事がうまくいかなかったりして、人は逃げるんだ。家族が生きがいっていうのは、仕事へのアキラメからくるものなんだ。そうゆうアキラメタ人たちをみると、家族に逃げてて、惨めだ。ぞっとする。
わたしはそうなりたくない。ずっと勝ち続けたいし、夢を絶対にアキラメナイ。
アキラメルやつは、敗者なんだ。

社長になるってのは確かに社会的成功の象徴なのかもしれない。

だとしたら、その(皆が思う)成功をのぞなまないことは、アキラメなの?

アキラメたら、惨めなの?

その思想に対する違和感にあてられてグッタリしながら、「わたしは惨めなんかじゃない。とにかく仕事で成果を出し続けよう」って23歳のわたしは考えるのをやめてたなぁ。

でも今ならもうちょっと落ち着いて話を整理できる気がする。

たくさん周りから「凄いっ!」って言ってもらえることを社会的成功だとした場合に、成功をダイレクトに求めてくのってしんどいな。

わたしは周りの人が決める成功よりも、自分が感じる幸せを大切にしたい。

自分が感じる幸せを追求した結果、それが誰かのためになって、「ありがとう!凄いっ!」となって社会的成功になったら、なお嬉しい。

社会的成功はそんな副産物として捉えるほうが、気持ちが楽でいられるな。

そして、社会的成功っていうのは、時代やコミュニティによってある程度決まったものなのかもしれない。例えばお金持ちとか、友達多いとか。

一方で、個人の幸せって、まさに自分が決めてくもの。決めてくものといいながら、実はすでにプログラムされてるところも大きい。色んなものに対する自分の感じ方をみてはじめて、「あぁ、わたしにとって幸せってこれなんだ。これに触れてると心がポカポカしてくる。」ってわかっていくこともたくさんある。

だから、ある人が社長になりたい〜といってて、途中から「家族を大切にするのが僕にとって幸せなんだな」と考え方をチェンジさせてる場合、それはアキラメというより気付きなんじゃないかしら。

自分にとっての幸せがわからない間は、なんとなく社会的成功を追ってしまいがち。

だけど、経験や知恵を得ていくうちに、自分知って、自分の幸せがわかってくる。幸せに気付いてくる。

それに気付いて、その気付きにそって生き方を変化させていける人って、とても魅力的じゃないかしら。生き物としての生存能力も高いよね。

冒頭の言葉をくれた先輩、今は社長よりもなによりも自然と溶け込む時間が自分にとって大切と気付いて、好きなことしてキラキラ活躍してる。

そんな気付きがあって活動していく中で、とある企業の役員にもなってるのだけど、今の彼にとって「役員」であることはそんな大切じゃないみたい;)

thank you as always for coming here!:)