見出し画像

系譜

文章をかくときに意識しているのは、できるだけ無意識でいること。

うまく書こうとか、こうゆうことを伝えたいとか、こんなオチつけようとか、こんな風に受け取ってほしいとか、たくさん考えてしまうんだけど、一旦そうゆう「賢さ」をポイっと捨て去ててしまう。

そして、湧き出たものをそのまま書いてみる。みえてるものを、そのままに文字にしてみる。

だから、自分ではある一文が浮かんで、それをiphoneのメモに書いたら、自然と連なる言葉や音をそのまままた書いて...それの繰り返し。

自分でもなにを書いていこうとしてるか全然わからない。

ほとんどの文章がまとまりのないもの。

でも、そうゆう書き方こそ癒されるのに気付いた。

書いた内容はわたしという一個体からでてきてるものだと思ってた。客観的にはそう。

でも、書いてる本人の主観からすると、もっと壮大で神聖なもの、大きな何かと繋がる中で降ろされたものだったりする。

それって、自分という小さな枠組みの中で、賢く文字を並べて、何か特定の反応や効果を期待してかいてるときには、なかなか得難い感覚なんだよな。

---

なんでかわからないけれど生じてしまう衝動

それは時に単なる食欲や性欲や承認欲みたいな単純なものだと一蹴されてしまうのかもしれないけれど、本当はもっともっと複雑でその人独自の系譜を含んでて、一個体を超えた何かをも表すものだと思ってる。

それをできるだけそのままの剥き出しに記録していく。

自分は表現者でも執筆者でもなく、ただの器として衝動を翻訳していく。

そうやって翻訳される中で衝動は昇華されていく。

そうやって昇華させていくことは衝動をもつ人が唯一癒される方法なのかもしれない。


thank you as always for coming here!:)