見出し画像

唯一のまことの玉


 ある玉細工師がいた。いつも男の装(ナリ)をしていたので誰も女とは気づかなかった。たいそう美しい男だった。町ではうすみどりの洒落た服と帽子で女たちの吐息をさそう伊達男。いつも女と寝、男とは決して寝なかった。
 かれはみどりの瞳をもっていた。おお、勿論それはまことの色だった。どんな草木にもあの色は宿るまい、神の色、ヴァルダナ湖の水面の色だ。だがかれは詐欺師だった。まことの玉をかくし、売られる石はしばしばただの硝子珠、その悪行を愉しんだ。
 多くの上客がかれにはあった。翡翠の瞳した玉細工師は地中の玉と感応するというので。かれの石ががらくたな筈はあるまい?
 藩王が、執政が、貴族たちが、その奥方が、きそって石を買い求めた。一日のうちに、老いた富豪と、美しいその妻と、若く逞しいその愛人にかれは玉を売った。しかつめらしく愛の講釈なぞ聞かせながら—— 指輪も首飾りも、みんな緑の硝子珠。だが一つくらいは本物も混じっていたかもしれない……
 かれは色男で、詐欺師で、毒舌家だった。奔放な振る舞いで多くの敵をつくった。総督を陰間とあざけって(まだ青年である彼は、新妻に指いっぽん触れていないという噂だった)町から追放になった。玉細工師の結社はなん年も前からかれを狙っていた。かれが昔、そこを脱けだしたからだ。
 かれは町を捨てた。辺境を流れ、遊牧民とも滅多に行き会わぬ奥地まで来た。うすみどりの服はすっかり色褪せ、帽子は失せて髪はぼさぼさ。はじめのうちこそ布施する者もあれ、なん人も殺めたことが知れ渡って近寄る者はなくなった。
 谷の入り口で、かれは結社の最後の刺客を岩の下に蹴り落とした。それから茶を沸かして思案した。どうどうと飛沫をあげて瀑布はながれ、やまやまは翠(ミドリ)。岸には玉のかけらが洗われている。かれは伝説を試みる時が来たと思った。
 玉細工師に伝わる伝説によれば、この世のどこかに唯一つのまことの玉が眠っていた。見出すには翡翠の瞳と神獣の毛で織ったうすみどりの服が入用という。玉を手に入れるには、守護の神獣をあざむかねばならぬので。探索はことごとく失敗に終わった。だがひとたび玉を得れば(それは神のみどりの炎なのだから)神のごときちからが己のものとなる。
 かれは神秘を信じなかった。おのれの運を試すために谷をさかのぼった。一つの支流で多くの玉石を手に入れた。さらに行くと流れは山の根をくぐった。かれは洞窟に入り、広間や、小部屋や、列柱の間を調べるうちに方向を失った。地上は秋の暮れだった。
 地の底の暗闇を、かれはなん日も歩き回った。ときおり、火影に壁の結晶がきらきらと煌めいて沈んだ。水はまわりを流れたりとどまったりした。遠くから、かずおおくのけものの合するようなさけびが聞こえた。かれはそちらへ行こうとした。だが見当を間違えたか、声はやがて消えてしまった。
 かれは暗闇の中で思案した。とうとう明かりが尽きた。けれど目が慣れればあたりは真のくらやみではなかった。道の先からぼうとした燐光が流れてきた。道は大きな地下の水路とまじわった。しきりと水音が聞こえた。うすぼんやりした明かりが水路ぜんたいに満ちていた。発光するのは鍾乳洞の壁にへばりついている苔だった。麝香の残りがに、かれは大量のけものが通り過ぎたあとと知った。
 かれは水獣の巣のことを考えた。言い伝えでは、山奥の水簾洞に年に一度、水猿とか河童とかよばれるいきものが集まって婚礼を挙げるとか。それを見た者は長くは生きられぬといわれた。かれは不吉な但し書きを一笑に付した。玉の大鉱脈が近いことを確信して、水の流れて来るほうに進んだ。
 天井から水がしたたり落ちる広い部屋があった。いちめんの黄色い明かりの下で、けものたちが死んでいた。うちかさなり、半透明の膜におおわれて。馥郁たる香が石筍のあいだをたちのぼった。そのまんなかに玉細工師はみどりの光をみとめたように思ったが、幻であったかも知れない。
 ふと見ると、背後のくらやみに一匹のけものがいた。薄汚れたような白い体躯に赤い文様が鮮やかに映えた。それは泪をためて動かぬ伴(トモ)どちを見つめた。
 「おまえ、玉の神獣かね」
 玉細工師の声は水音にかき消された。けものはかれを眺め、はらからたちをかえりみた。陽物がむなしく宙に揺れた。彼は来るのが遅すぎた。痩せこけて、しかも跛だったのだ。けものは蹌踉とかれに近づいて来た。こちらは屈んで、相手が近づくのを待った。
 「おまえ、玉を知らないか。わたしの目の色をした石を」
 けものは玉細工師の指さした腕に触れ、手から、指から、頬をなぞって、瞳のあたりを撫で回した。けもののからだから麝香のかおりが生じた。
 だが、あたりは今や腐臭に満ちていた。見れば膜の中で、けものたちの躯はとろけてゆくのだった。苔が肉塊を覆うてゆき、みどりにみどりにあやしくもえながら、屍は端からゆるゆるとくずれていった。袋が破れ、黄金色の粘液が流れ出た。跛は悲鳴をあげ、かれをうながした。玉細工師がねばねばに取られた長靴を脱ぎ捨てると、粘液はみるまにそれを喰ってしまった。
 けものと玉細工師は暗い道を這い進み、どこかの窪みに身を落ちつけた。互いの姿が見分けられるばかりの明るさだった。水音は続いた。玉細工師が残りの長靴を脱ぐと、けものは大いなる関心をもってむきだしの足を撫ぜた。
 「ほんとうに、おまえはただのけものだなあ。一体誰が神秘なんてものを考え出したんだろう?」
 玉細工師は声に出して言った。
 「おまえはわたしが気に入ったのかい」
 けものは返事の代わりに、かれの濡れそぼったずぼんの裾を丁寧になでつけた。玉細工師は笑った。「馬鹿だな。そんなことをしてもおまえの仔は産めないよ」だがかれは、前をひらいてけものを招いた。
 かれらは幾度か交合した。次第に寒くなった。けものと抱き合ったまま、玉細工師は今回の失策の原因を考えていた。ときどき次の計画も考えた。「神獣の毛で織ったうすみどりの服」かれは言った。「次はもっと分厚い、水の通らない服でないと駄目だ」腹の上でけものは震えていた。
 かれらはだんだん弱ってきた。たいそう寒かった。玉細工師が目覚めると、けものはかれのまわりに繭をつくろうとしていた。「馬鹿だな」玉細工師は笑った。「わたしはおまえの仔なんかつくれやしないよ……」そして目を閉じた。けものは臍からうすきみどりの糸を吐き出して、伴のからだをすっかり覆う繭をつくった。そうして力を費い果たして死んだ。
 けものの死骸は溶け去り、小部屋はつらら石に埋まった。うすきみどりの繭ばかりが石のなかで保存された。二つの鮮やかなみどりの斑と乳白色の縞をもつ、一箇の瑪瑙と化して…… そうして世界のどこかには、依然として唯一のまことの玉が眠っている。玉細工師たちは今なおそう主張している。

 同じ頃、
 賢明な若い王がいて、立派に国を治めていた。と言われている。悪魔は王にとりいり、王が高貴な生まれの美しい妃を侮辱するようにしむけた—— 結婚後何年たっても、王は妻に指いっぽん触れなかった。たまりかねて妃は城を脱け出した。命を絶とうと谷をさまよううち、山の王の水簾洞に迷いこんだ。山の王は神々も敬意を表する偉大な神猿であったが、妃の信心を試そうとして見るもいやらしい貧相な乞食に身をやつしてあらわれた。そう言われている。神と妃の契りから、聖王ラマティヤートが生まれた。
 王子が成人した時、神は一つの玉を与えた。持つものののぞみを叶える宝であった。(別伝では神獣の毛で編んだ隠れ蓑)ラマティヤートは宝玉を携えて山を下り、悪魔と戦い、衆生を救った。
 だがまた、—— 聖王ラマティヤートはよく国を治めたが、賢く誇り高いその妃は、夫が何ごとも己ではなく玉に相談するのを不満に思っていた。妃はひそかに山へ行き、魔王とまじわった。そして何喰わぬ顔で王城に帰って来た。月満ちて妃は王子を産み、ラマティヤートは世継ぎの誕生をよろこんだ。
 王子が成人に達すると、王は息子に玉の扱いを教えた。「そなたも何か、のぞんでみるがよい」
 「王たる者は、それにふさわしい知恵を身に備えておりますよう」
 王子は言った。その途端、若ものの美しい額に叡知のかがやきが宿った。
 「よい心掛けだ。その知恵をもってそなたは何をのぞむ」王はたずねた。
 「王の治めるこの国が、子子孫孫幸多く栄えますように」
 ラマティヤートはほめ、さらにうながした。その時、王子は玉に命じた。「玉よ、おまえの生まれた谷に戻れ。そして二度と目覚めるな」
 玉は飛び去った。王は愕然として嘆いた。「息子よ、悪魔にそそのかされたのか。そなたは幸運も長寿も取り逃がしてしまった」だが王子は答えた。「父上、われらはこの地上で、人々の喜捨を乞うて道を行く旅人ではありませぬか。どうして幸運や長寿を腕の中に抱えておられましょう。要らぬものを持たず、与え、与えられて道ゆきは成るのでございます」
 山の魔王は玉を手に入れたが、今となっては石くれ同然であった。魔王は怒り(妃は玉を与えると約束していたので)、大嵐と疫病をたずさえて攻め込んで来た。だが王子は智略によって魔王をしりぞけた。そして長く平和に国を治めた。
 あるいはさらに、—— 一部の者たちは、この王子こそラマティヤートであったと言う。父王はあきらめきれず、人をやって玉を探させた。人々は石を持って戻って来たが、それはかの宝玉とは似ても似つかぬものであった。やがて、王は宝玉を失くされたのだという噂がひろまった。多くの者たちが玉を手にせんとて谷にわけ入り、むなしく死んだ。王は崩御し、後を継いだ王子も年老いて死に、人びとは宝玉のことを忘れてしまった。
 だが玉細工師たちは、—— 彼らこそ、王が宝玉を取り戻すために遣ったものどもなのだから、忘れなかった。人々にさまざまな緑の石をもたらしながら、彼らは唯一のまことの玉のことを言い伝え、山の奥ひそかに探し続けている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?