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【\疲れないコミュニケーション術!/『コア学流・非言語コミュニケーションメソッド』】コア学ゼミ2021年11月

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毎月開催されるコア学研究所の講義を書き起こししたテキスト(有料記事)となります。

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【非言語コミュニケーション】基本のおさらい

今回のテーマは、コア学サロンに続き、非言語コミュニケーションです。非言語コミュニケーションの本質的なことを復習しながら、繊細さんと呼ばれる方、コミュニケーションが苦手な方、人と話をするのが疲れやすいと思う方に向けて、非言語コミュニケーションの使い方や活用法、人との交流を楽しく、より軽く、より疲れないようにするために、どういう意識をしたらいいかという話を、私の実体験も交えながらしていきます。


前回のコア学サロンでは、非言語とか言語以前のコミュニケーションのとてもシンプルな本質の話をお伝えしました。それは何かというと「生きるために正確な情報伝達をすることがコミュニケーションの本質」ということでした。前回の復習になりますが、情報伝達を正確にすることがコミュニケーションの大元にあるので、情報が正確に伝達されないとつながりの断絶を感じたり、うまくつながらないという感覚を抱きやすかったりするのが特徴です。

日本語では理解できたとしても、言葉とその奥にあるイメージとか非言語の領域が一致しないと、正確な情報伝達が行われません。ですから、いくらうまくしゃべれたとしても、言葉の背景や本当に感じてることが言葉と一致しないと、聞く側は正確な情報伝達がされないので、イメージや臨場感が伝わってこないため、コミュニケーションができない感覚になってしまいます。ですから、日常の中で非言語コミュニケーションをうまく活用して、正確な情報伝達を通してどうやって人とつながれるか、ということが今回の議題になります。

まず、皆さんにお話ししたいことの1つ目ですが、コミュニケーションが苦手という方、結構いらっしゃると思います。私もそのうちの一人かなと思っています。あとは、人と話をする、交流する、飲み会とか食事会とかそういう場が疲れてしまう方もいるかと思います。あるいは、おしゃべりは好きなんだけど、なんとなく疲れやすかったり、苦手意識があったりする方もいると思います。私もずっと苦手で、結構矛盾してるなと思いながら、人と話をしなければいけない仕事をずっとやってきました。

なぜ疲れてしまうのか、根本的な原因を自分で発見してから、そこを解消していけばコミュニケーションで疲れないんだな、そうしたら自分らしいコミュニケーションがどの場面でも誰とでもできるし、どんな人ともつながることができるんだなと、実感するようになりました。そうしていくと、人と話したりコミュニケーションしたりすることが非常に楽になって、怖くなりました。まずその話をしていきたいと思います。

コミュニケーションで疲れてしまうのはなぜ?

どうしてコミュニケーションがこわかったり、疲れたり、苦手だと感じてしまったりするのか?根本の恐怖心は何があると思いますか?根っこに恐怖心を抱いてると、どんなにスピーチ力を上げても、雑談力って本もありますが、話し方の本とかで一生懸命勉強して、質問力を上げても、根本にある恐怖心がとれないとすごく疲弊してしまいます。では、何を恐れているから緊張が走ったり、いくらしゃべっても緊張感が取れなかったり、根本にある恐怖はなんでしょうか?

ヒントは前回のコア学サロンで話したことの中にあります。自分の根底というか、もっと言うと、全人類の根底にある恐怖心がコミュニケーションの疲れを発生させています。端的な結論を1つ挙げますと「誤解されたくない」という恐怖です。誤解されたくないという恐怖心が、自分の中で緊張感を作ってしまいます。ちゃんと言えなきゃいけない、誤解されたらどうしようっていう恐怖心が自分を縛り付けて、自由に発言や表現できないところにつながって疲れるという結果を生み出してしまうのです。誤解されたくない、誤解されることへの恐怖です。

コア学サロンでお伝えしたコミュニケーションの本質でいうと、正確な情報を伝達するということがコアな部分にありました。つまり、正確な情報伝達ができなかったらどうしようという恐怖心。これが本能的な恐怖心だなと思っています。メンタルが強いとか弱いとか、性格とか考え方とか以前の話で、誰もがこの恐怖心を持っていると考えられます。

ここから話を展開させていくと、コミュニケーションにおける恐怖心や緊張感を外すために重要なのは、まずは誤解されたくないという恐怖心を自分の中からとってあげたり、誤解されたらどうしようという恐怖心を自分の中で見つめたりすることです。ポイントは、誤解されたくないという恐怖心が緊張感を生み出しているということです。

あらゆる恐怖心に共通していますが、実際に誤解されたという過去の経験や記憶が恐怖心を生み出してしまうわけです。つまり自分が思ってたように思われなかったとか、こう伝えたかったのにそう受け取ってくれなかったと不一致を感じたり、誤解されたりした記憶ですね。

「私は誤解されている」という強い前提のようなものが自分の中の深いところにこびりついてると、いくら表面的なテクニックで人とつながるとか、自分を表現するとか学んだとしても、恐怖心をぬぐい切れません。ですが、もし誤解されたくない恐怖が自分の中からなくなったら、どうですか?人に誤解されたくないという気持ちが自分の人生からなくなったら、皆さんはどんな気分で過ごせそうですか?

人に誤解される恐怖心が皆さんの中からなくなったら、あるいは、その恐怖心と出会ったとき、自分でリセットすることができたら、日常のコミュニケーションはどう変化していきますか?単純に想像してみてください。誤解されたくないという恐怖心は誰でもあります。だけど、誤解されたくないという恐怖心でいっぱいにならずに、人と関われたらどうですか?すごく楽ですよね。いつでも誰にでも心開いちゃう。これ結構ポイントですね。

ジャッジされたくないというのも、実はつながってきます。誤解されたくないというのは、こう思われたくないってジャッジがあるってことです。逆にいうと、こう思って欲しい、こう伝わって欲しいってことがあって、自分が伝えたいと思ってる部分ではない部分を相手に取られてしまうことが、拘束感だったり、支配下にコントロールされてる感じがしたりして、不自由さを感じるんですよね。ここが今回の大事なポイント1つ目です 誤解されることへの恐怖が、コミュニケーションにおける疲れとかを作ってしまうということです。

「誤解されたくない」から抜け出すために

では、誤解されたくないという恐怖心とどう関わっていくのがベストなのか。私はここ数年、自分の実体験の中で本当にいろいろと考えてきました。誤解されてもいいやって思うとか、「嫌われる勇気」ってアドラー心理学も代表的かなと思いますが、人にどう思われたっていいやって、バーンと捨てるのもありといえばありなんですね。

私も実際に試してみました。人にどう思われたっていいやとか、人にどう思われても大丈夫だとか投げやりな感じで、そんな恐怖はいらない!無視無視!みたいなにすると、私の場合、また恐怖が大きくなっていく感じがあったんですよ。どうやらこういうやり方はちょっと違うなって思ったんですね。嫌われてもいいやって投げてしまうと、人とつながることさえもどうでもいいやって感覚になってしまうので、それはクサイものにフタをする感じがあって、ちょっと違うなって思ってました。じゃあ、どうやって恐怖と付き合うか、私が最終的に見つけたあり方を皆さんにシェアしていきたいと思います。

私ならではの感じなので、皆さんは自分のものを見つけてもらうのがいいなと思うんですけど、私は根本的なところから入っていくことにしました。どんな感じかというと、そもそも私が感じていることが相手に正確に伝わることは100%ありえないってことを受け入れました。私が感じてること、思ってること、感触、伝えたいこと、これが100%相手に伝わることは100%ないっていう結論を持ちました。

私が放った言葉とか何かをきっかけに相手が何かを感じますよね。でも、私が放った情報は相手にとってきっかけでしかなくて、相手の中から生まれた反応が相手にとっての真実になってしまう。これがどんな人との関係でも起きてくるわけです。

だから、自分自身の表現を正確に言えたとしても、相手にとって本当に残るのは相手が感じたことなんです。私が言ったことは相手にとってのきっかけでしかないということをそういうもんなんだと、1回受け入れました。受け入れたと同時に、相手の中で生まれた相手にとっての真実は、相手の人生においての正解であって、私の人生においては関係ないって、言葉は悪いですけど、そこのつながりを断ちました。

言葉で説明すると難しく聞こえるかもしれませんが、ある部分を断絶することで、初めてコミュニケーションを通してつながれるって現象が起こるんですね。相手がどう感じるかは自由というように自由を与える感じです。

自分と相手がどう感じるか自由を与えるってことを、自分に許可したんです。嫌われる自由とか誤解される自由とか、そういうのとは違います。例えば、私が何かを言ったとき、「なんでそんなこと言うの?」とか、「なんでそんなこと平気で言えるの?」って、誰かに言われたとします。そのとき私は、そんなこと言ってないとか、私はそんなつもりで言ってないってなってしまうと、私の言ったことが相手に正確に伝わっていないから、相手は私に意見してくるんだとか、私を批判してくるんだって思っちゃうんですね。

でも、私が角度を変えて視点を変えて、その人のリアクションを観察できるようになると感じ方が変わってきます。どう変わるかというと、「なんでそんなこと言うの?」とか「それひどくない?」ってリアクションをされても、自分の言ったことが相手の中に届いて、相手の中で化学反応が起きて、それでひどいとか、その考え方はないとかっていう反応が生まれたから、相手がそれを私に返してきたってことになります。

だから、相手は私の言ったことを批判してるのではない。相手が私の言ったことをきっかけに相手の中にある批判精神がポンっと出てきただけで、私の言葉とか意見に対して、相手が批判してるわけではないって見えるようになった、そういう観察意識を持てるようになりました。

良くも悪くも相手をジャッジしないし、相手にジャッジされてる風にもとらえなくなったってことです。だから、この人は私の一言ですごく反応してるけど、私の一言が彼とか彼女の中でどうやって変化が起きたのかなって見るようになったんですね。

私を批判してるかのように相手は表現してるけど、私は批判されてるって受け取る必要はないし、相手は私を批判してる感じで言ってくるかもしれないけど、相手は私を批判してるんじゃなくて、相手の中にもともとあった思いとか、考え方がバッと出てきていると観察できるようになりました。この観察意識が「誤解されたくない恐怖心との付き合い方」になった感じです。誤解されたくなーい!違ーう!って戦ったり、相手の考えを変えようとしたり、相手に伝わるように自分を変えようとしたりとかじゃなく、ポイントは「観察意識」です。リアクションする相手、反応する相手を観察する視点が全然変わりました。面白いって感覚で見られるようになるんですね。

私は自分が思ったことを言っただけなんだけど、相手がすごく反応してて、こっちに向かってすごく反応してくるけど、この人は私の言葉をどうとらえたんだろう?私の表現を彼女や彼はどのように解釈して、内面でどんなミックスとか変化が起きて、相手の中から出てきてるんだろう?って観察するようになったら、受け取らなくなったんですね。

だから、誤解されるってことが人生においてなくなったって感覚に近いかな。誤解されるって結局、相手の評価とか相手のジャッジを自分で無意識に受け取ろうとしていたり、相手が投げてきた評価をそのまま受け取らなきゃって思うと嫌ですよね。

そんな風に言ったつもりないみたいになるんですけど、そもそも、私の言葉は相手にとってきっかけでしかなくて、それが相手の中で変化や刺激となって、相手の中にもともと眠ってた何かが発火しただけって思えたら、結局自分が誤解されてるんじゃないかっていう思い込みだったんだなって、実感としてわかるようになってたんですね。

ですから、相手の評価やジャッジを軽やかにスルーする生き方っていうのかな、どんな風に思われようが、どんな風にジャッジされようが、相手の反応でしかないって、冷静に観察できるようになったら、受け取らなくなったって感じです。相手とまともにやり合わないって感じです。全部受け取りがちな人ってコミュニケーションで結構疲れちゃうと思います。

「会話はキャッチボール」という当たり前を見直す

ここで次の話に移りますが、私の言葉は相手の中でどう調理されて、どういう色付けをされて、どういう反応をするんだろう?って観察するようになると、相手の評価を受け取らなくなります。これね、つまり何が起きたかっていうとコミュニケーションでキャッチポールしなくなったんですよ。これが私をすごく楽にしてくれました。我ながら画期的なことだと思ってます。

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