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「勝浦川」その22.炬燵の上のみかん

敏雄は、日本農士学校から戻った。
敏雄は、父丈三郎にみかん作りの修行をしたいと頼んだ。


山の畑のみかん作りは、いまでは丈三郎とゆきえと英雄の仕事だった。敏雄が加わることで捗ると思えたのだったが、体力には自信がある敏雄も農作業では父と兄に敵わなかった。

敏雄は日本農士学校で学びながら「みかん作りになろう」と思った。帰郷したら父に頼んで、一からみかん作りの修行をさせてもらおうと思ったのだ。


ところで、昭和20年(1945年)の敗戦の年は、朝鮮、台湾、満州などの食糧補給地を喪失していたし、天候不順による米の大凶作に加えて、引き揚げ者による人口増もあって国民は深刻な食糧不足による栄養失調状態にあった。

昭和22年(1947年)11月5日の新聞に載った、山口良忠判事が栄養失調で亡くなったという報道に人々は衝撃を受けた。闇物資事件を担当していた山口判事は、違法手段である闇で手に入れた食糧を拒否しつづけたのだった。

敏雄がみかん作りを志した昭和23年(1948年)、食糧の配給が少し増えたと謂っても、一人一日二合五勺だった。米でカロリー換算すると1,260キロカロリーであるが、麦や芋類や脱脂大豆やトウモロコシが主食として代用されたし、それも遅配・欠配が頻繁だった。

昭和6年(1931年)の宮沢賢治の手帳に記されたメモに「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」とあるが、江戸時代には一人一食二合半、一日五合の米を食っていたという説もあるほど我が国の人たちは米を食ってきた。主菜・副菜は粗末だったが、味付けは濃い目で飯を食うためのものだった。その日本人にとって一日二合五勺は辛い。皆痩せ細って様々な病を引き起こしていたし、国民の体重はおしなべて平時の一割ほど減ったという。


そんな状況のなかで敏雄は想像した。

それは、炬燵の上に籠盛りのみかんが置かれている風景だった。
もう少し詳しく言うと“日本中の家庭の炬燵の上に当たり前のように籠盛りのみかんが置かれている風景”と言うべきか。

空腹を満たすために品質は度外視して大きな芋などが作られていたデンプン農業の時代だったが、やがてそれが足りてくれば卵や肉を作るタンパク農業に移ってゆく。それも満たされるようになれば栄養価を気にして野菜や果物などの需要が増えてビタミン農業の時代になるだろう。つまり“炬燵の上に籠盛りのみかんが置かれている”というのは、デンプンもタンパク質も野菜も足りている状態だということだ。

敏雄が想像したのは、つまり“豊かで平和な風景”なのだ。敏雄は、そんな風景を実現させることが自分なりの戦争責任の果たし方だと思った。

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