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「勝浦川」その24.船出

勤務する徳島県立果樹試験場は敏雄の実家からも近く、勝浦川沿いの丘陵地帯に在った。

敏雄と孝江は、昭和30年(1955年)10月7日に結婚した。

丈三郎は水田を売って勝浦川の傍らの土地を買い、みかん園を造り園内にみかんの貯蔵倉庫を建てていた。丈三郎は、その二階を改修して敏雄夫婦の新居を造った。貯蔵倉庫の二階と謂えば粗末な部屋を想像するが、新築住宅のような贅沢な造りだった。丈三郎は敏雄の嫁を迎えるにあたり出来る限りのことをした。

丈三郎の家の二階で敏雄と孝江は結婚式を挙げた。
静岡の興津からは、媒酌人を勤めた敏雄の恩師で試験場の場長だった岩崎藤助・満子夫妻と、孝江の父・利信が参列した。足が弱い孝江の母・さとは、列車と船を乗り継いで遠路を旅することは出来なかったから、興津の家の庭で着物姿の孝江と記念写真を撮って見送った。


富士山の見えるところで育った孝江は、丈三郎やゆきえをはじめ叔父たちや兄妹たちからも、勿体ないくらい大事にされた。だが孝江は敏雄が試験場に勤めに出てしまうと家事以外にやることがない。それでは時間を持て余すだろうと敏雄がヒヨコを数羽買ってきた。ニワトリを育てれば卵も採れるし孝江の生活に張りを持たせられると考えたのだが、孝江はヒヨコに触ることが出来なかった。

結婚後間もなく孝江は妊娠した。だが、年が明けるとその子は流れてしまった。男の子だった。

遠く静岡の地から来て、言葉も風習も食い物も違う馴染みのない山の中で暮らしはじめた孝江の気苦労をゆきえは案じた。丈三郎とゆきえも一歳の長男を事故で亡くしていたから、孝江の辛さが痛いほど解るのだった。

だが、程なくして孝江はまた妊娠した。
ゆきえは敏雄が孝江の傍で煙草の煙を吐くと叱るほど、孝江の身体を心配して世話を焼いた。

昭和31年(1956年)12月10日、敏雄が出勤した後だった。急に産気づいた孝江をリヤカーに乗せて、丈三郎は勝浦病院に向かって走った。産まれたのは男の子だった。

敏雄は結婚して子どもを授かった。
それなのに敏雄は試験場の仕事を辞めて一介の開拓農民になると言い出した。


果樹試験場の技師として、敏雄は熱心に研究に打ち込んでいた。農家のみかん園で見つけた枝変わりの穂木を発見し採取して新種のみかんを育てたりした。農家の名字を採って「片山みかん」と名づけられた中生品種の温州みかんだった。

だが、試験場の技師がいくら栽培技術を説いても、農民たちは言うことを聴かなかった。若い技師の指導に倣ってみかんを作る農民などいなかったのである。

敏雄は、自分が学び研究し会得した技術を普及させるには、自ら開拓農民となって理想のみかん農家を創る以外にはないと思ってしまった。


敏雄が、静岡県浜松市の三方原台地に入植して開拓農民になるつもりだと言い出したとき、丈三郎は反対しなかった。

住宅も用意した。二歳の孫もいるし孝江の腹にはもう一人授かっているらしい。なにより孝江はヒヨコすら触れなかったではないか。それが開拓農民になる?

反対する理由はいくつでもあった。だが、丈三郎が反対しても敏雄が一度決めたことは止めることがないことを知っていた。丈三郎が反対しても15歳で予科練に志願した敏雄だ。反対するのは無駄な事だ。

丈三郎が許してしまったからには、ゆきえは反対出来なかった。可愛い盛りの孫とも別れなければならない。身重の孝江のことも心配だ。ゆきえは唯々お大師さんに縋るしかなかった。


昭和33年(1958年)5月、小松島港を出港した船が離岸する間、無数の別れの紙テープがなびいていたが船は岸壁から遠ざかると一回転して舳先を外海へ向けた。

戦艦は出撃を想定して入港時に港で一回転して舳先を外海に向けてから着岸する「出船の精神」を、敏雄は海軍で訓えられた。客船は悠長に名残りを惜しむように一回転してから離れてゆく。

岸壁では、渓水倶楽部の仲間たちや試験場の同僚たちが万歳を繰り返し手を振って敏雄たち家族を見送っていたが、切れてしまった紙テープの端を持ったまま美代子と和代は泣いていた。

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