7つの習慣実践ドリル26日目。
朝から「赦す」ということについて、ものすごく考えさせられてしまった。
誰しも赦せないと思うひとがひとりぐらいはいるだろう。
その誰かを赦すことは、前を向いて次の一歩を踏み出すことだ。
しがみつく過去を振り払う、みたいな勇敢な話じゃあなくて、考えても無駄なことを受け止めて昇華させてやるだけのことだ。
結局、赦すのは、相手ではなく縛られている自分の心だ。
腹を立てている自分を赦してやったらいい。
ただそれでも簡単にはいかないなと思う。
赦す、なんてそもそも僕に権限はないし、でもあえて言葉にするならやっぱり「赦せない」と思ってしまう。
赦すと、言葉に出してみて一番にピンときたのはひとではなくて組織だった。
僕は大学の事務組織が嫌いだし、教員組織が嫌いだし、二度とあそこで働きたいとは思わない。僕の大好きなひとたちにもあそこで働いて欲しいとは思わない。
でもこれらは僕の解釈であって、これらの中に真実は含まれていない。
それで、赦せないと考えれば考えるほど、赦すも赦さないもないなと思う。
第一、組織は僕を覚えていないし、組織は赦してもらう必要がない。
これまでのひとつひとつを選択してきたのは、他でもなくこの僕であるし、組織はそれを強要したわけでもなく、その選択を促してきたわけでもない。組織のせいにすれば僕の気持ちはいくらか楽になるというだけのことで、だから腹を立てても、あるいは立てなくても、仕組みは何も変わらないし、変わるのは唯一僕の心の在りようだけという、なんともわかりやすい結論だ。
だから最初から「赦す」ということの対象に組織を選ぶこと自体がナンセンスだ。
いずれにしても僕は勝手に腹を立てているだけだし、たぶん、僕が傷ついたことを忘れて欲しくないと思っているだけだろうなぁ。
すぐにできなくてもいい。
傷ついた自分を赦してやったらいいと思う。
誰かのせいにしないとやってらんなかったんだろうなぁと優しい気持ちで見守ってやろうと思う。
あんたはよくやったよ。
他でもない僕がいちばんよく知ってる。
本当にがんばった。
自信持って良い。
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